SATC2

 悠久の昔、ヘッジの提案をした様な相場水準までユーロが下がってきたので、その事を書きかけたが、今日はニューヨークの話にした。真面目な話じゃなくて、映画のSATC2 (Sex And The City 2)のことである。
 別に娯楽映画だし、米国では評論家からの評価もイマイチというか、"Skip It"というレベルだという事も理解した上で行ったのだが、SATCの魅力であるアホっぽく派手な感じ、映画の中では、"sparkling"と表現していたけど、それが前作と比べて減って、何か結婚2年目の哀愁みたいなのが全体的に漂い、多少は考えさせられる普通の映画みたいになっていて、正直ちょっと期待はずれだった。ファッションもライフスタイルも悩みも極端にビッグで、現実じみて無いのが良かったのに、今回は妙に現実じみているのである。アリシア・キーズの「Empire State of Mind」でイントロはぐっと盛り上がって、相変わらずマノロ・ブラニクの靴も、ディオールのドレスも素敵だったけど、現実の前には我に返ってしまう。ニューヨークの今の現実は、最近行ってないから判らないけど、ニューエコノミーから証券化バブルまでの好景気が産んだ金ぴかのsparklingな生活が、金融危機を経てどうしようも無く格好悪くなってしまって、ちょっとは現実を直視した話じゃないとウケないのかもしれない。また、お話の中では、sparklingな要素を中東はアブダビを舞台にして表現していたが、これも今のニューヨークには、sparklingな感じが無くなってしまったこと、或いは新たに生み出せなくなっていることの証左の様な気がした。
 ただ、前作は、もの凄く単純に言えば、サマンサが15分に一回位LAからNYCに来て大騒ぎをするのを繰り返している内に、キャリーが結婚するという話(!)だったが、結婚相手のMr. BIGは、男から見ても、n数は少ないが周りの女性から聞いても、余り魅力的な男ではない。保守的で、金持ちだけどオシャレでなく、単なる真面目な仕事人間のオッサンにしか見えない。楽しく奔放な独身生活を送っていたキャリーが、こういう人を選ぶ時点で、前作は極めて現実じみた話で有ったのだが、そんな選択をしたら、キャリーのライフスタイルと仕事人間の男が合う筈もなく、現実じみた問題が出るのは必然である。そういう必然を映画にすることで、10年前にこの映画をテレビで見ていた独身女性の、10年後の現実の問題にアドレスして共感を得ることが狙いなのかもしれないが、この映画はそういう共感よりも、憧れの要素を強くした方が「らしい」感じはする。
 日本でもSATCのファン層は、その平均年齢が1年に1歳年を取る、典型的な固定ファンの様に見える。今の25歳以下の女性で、この映画が好きだと言う人は少ないだろう。僕の世代はSATCファン層の真ん中へんだし、周囲を見渡すと女友達はSATCみたいな生活を送って独身ばっかりだから、気をつけないと世の中の全てがSATC一色みたいに思えるのだが、多分そうでは無い。前作も盛り上がった様に見えて、実は興行収入が17億に止まったのは、この映画を見る層が限られている事を意味する。都市に住む、F1とF2の境目あたりで、ナレッジワーカーか、かつてそうだったかで、平均よりは成功している層といったイメージだろう。また、映画が始まると、普通はシーンとしている日本の劇場にしては珍しく、ザワザワしていて、観客は一シーン毎に笑ったり突っ込みを入れたりしていた。あたかも昔からの知り合いに会いに来た様な、リラックスした雰囲気だったのである。ファン層が限られている上に、その人々は相当コアなファンということだろうか。確かに、劇場には、SATCの4人とそのファン層との間の、同じ時代を共に生きてきた同士感が漂っていた気がした。
 ただ、そんな時代にも終わりはいつか来る。このシリーズが、Spaklingな時代の終わりと共に、今作で終了するのだろうと、ある種の確信を持ったのが、劇中4人がHelen Reddyの"I Am Woman"を高らかに歌うシーンだった。このシーンが、SATCとその時代のカーテンコールだと直感したのである。しかし、家に帰って制作者の視点で考え直すと、これだけ固定ファン層との同士的繋がりがあるなら、その同士が年を取って直面する現実をSATC流に描くことで、商売として続けられる算段も出来る気もした。それであれば、今作でしきりに子供は要らないと言っていたので、うっかり子供が出来ちゃったので産むかどうかキャリーが悩む、という次回作は、いかにも今回の現実じみ路線では有りそうな展開ではある。
 最後に、冒頭に「多少考えさせられる展開」だったと書いたが、現実じみた話の他に、もう一つ考えさせられたことがある。この映画は、R-15指定なのだが、もちろんその最大の理由は、とにかくサマンサが下品なことである。この点において、自分は米国人のサマンサの下ネタは、積極的に受け入れて笑うことが出来る。しかし、劇場で下ネタに盛り上がり、周囲を圧して下品な反応を示しているのは、限って結構年上なオバサンだったりして、こういう日本人の存在は受け入れられずにヒキ気味なのである。この、妙な主体の国籍別に差別化された下品さの許容度については、そのリベラリズム的価値観における是非・それがなぜ形成されたかの私的経緯につき、帰宅後深く沈思黙考した次第である。