日本の病の一つ目。「戦力の逐次投入」

 まだ、考えがまとまりきって居る訳では無いが、幾つか典型的に日本人や日本企業が構造的、或いは風土的に不得意な種類の意志決定が有る気がする。読んで頂いている皆様も常日頃から、同じ事を感じているのでは無いだろうか。こういうステレオタイプに物事を当てはめて、ゼロかイチかに割り切る議論が、必ずしも複雑化した現代の事情を正しく理解するのに適したアプローチだとは思わないが、何事にも例外が存在することを前提とした議論であれば、多少は正しさが担保できるであろう。
 その典型的な意志決定の一つは、「戦力の逐次投入」をしてしまうことである。これまで借金を増やしてきた施策の延長線で、また借金を増やす様にしか感じられない概算要求96兆円とか、半導体や液晶パネルに続いてまた同じパターンで太陽電池リチウム電池が大量投資と価格競争を得意とする韓国勢や中国勢に迫られているニュースとかを見るに、国家予算や事業投資予算といった戦力を小出し、或いは分散化しているが故に、陥っている罠がある。日本の官僚組織や大企業、言い換えれば大組織というものは、常に逐次投入をしがちな組織構造なのかもしれない。また、それが世界に普遍的かと言うと、リチウムで迫っている韓国のプレイヤーが、サムスンとLGのグループ会社という大企業だから、どうやらその病を克服している組織も世の中にはあるらしい。
 一般的に、戦力の逐次投入は古来より戦場の下策として戒められてきたとされるけれども、古今の戦術書のどれが出典かと言うと、実ははっきりしない。孫子の兵法はと言えば、再度精読した訳では無いので、断言は出来ないが、「善く戦うものは、その勢は険にして、その節は短なり」「故に兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久なるをみざるなり」など、風の如く疾きことを重視した機動会戦を主張はしているが、逐次投入そのものを戒めた記述は無い様に思える。
 西洋に行ってクラウゼヴィッツ戦争論に於いては、時間上の兵力の集中という概念の中で、兵力の使用は、一つの作戦行動と瞬間に凝縮されてる程、効果が高くなると述べているし、空間的な兵力の集中についても一章が設けられている。しかし、空間的な兵力の集中の議論の中で、具体的に分割攻撃をしても良いケースが取り上げられているのは、防御側の話である。例えば、防御者が有利で分割しても優勢が崩れない場合(そんな場合が現実に有るのかは疑問だが)や、攻撃側の前進力が失われ攻勢限界に達している場合には防御側の分割攻撃は可とされているが、攻撃を含めた戦争全般において、逐次投入というコンセプトそのものに焦点を当てた議論は為されて居ない様に思える。
 それで、はて原典はどこかと調べてみると、どうやらナポレオン言行録の様である。僕はこの本を読んだことが無いので、複数の二次情報からになるが、ナポレオンは、「戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を取っておく将軍はほぼ常に敗北する。必要とあらば、最後の一兵まで投入しなければならない。なぜなら、完全なる軍事的成功の翌日には、もはや我々の前に障害はないからである。」と言っている様だ。これは極めて明確なコンセプトである。しかし、当のナポレオン本人が、最後のワーテルローの戦いで、ネイ元帥の突撃の後に近衛軍団の投入を渋って勝機を逃したのは皮肉な物語だ。
 このナポレオンの発想、及びナポレオン戦争を踏まえて書かれた戦争論には、長期持久戦では無く、集中と機動による決戦重視思想が色濃く現れているが、これは当時の欧州の情勢が影響している。英仏独西伊とヨーロッパ主要国が軒並み似たようなサイズなのは、一義的には民族的背景だろうが、古代から中世の戦争技術を前提とすれば、国を保つ上で最低限必要な戦略的縦深性(strategic depthという英語の方が直感的か)がこのサイズであったので、その範囲に民族が淘汰・収斂したとも考えられる。それが、産業革命以降の近代における技術革新により、ナポレオン戦争時点では、進歩した機動力が古来からの縦深性を圧倒しつつあった。なので、決戦に勝てば、あっという間に敵国の縦深性は蹂躙できる為、この集中と機動による決戦主義に行き着いたと考えられる。ここからして、集中機動決戦の優位性と、その逆手としての逐次投入の劣位が意識されたのは比較的最近だと思われる。
 この事は、現代における経営において大変示唆深い。世紀が変わった頃から顕著に現れたメーカーを巡る情勢の変化の一つとして、モジュール化と水平統合の進展、中進国経済の爆発的発展、及び資本市場の発達と世界的収斂は事例として挙げられると思う。まず、モジュール化と水平統合によって、半導体とかフラッシュメモリとか液晶パネルとかの所謂かつての部品が、単品として商売が成り立つ様になった。負けゲームの端緒は半導体だったと思うけど、20世紀からの垂直統合モデルという日本の総合電気メーカー・通信機器メーカーにとっての戦略的縦深性が、モジュール化と水平統合という進歩した機動力によって、浸食されたのである。中進国経済の発展も、垂直統合で磨いた技術力に重点を置き、カスタマイズした高機能製品が得意な日本メーカーには不利に働いた。低価格で、コモディタイズされた製品が好まれる中進国には高価格でカスタマイズされた日本製品が受けなかったのは周知の事実だ。特に、携帯でノキアサムスンに完膚なまでにやられた事がこの現象の余波の代名詞として語られるが、この日本メーカーにとって商売の相手でない中進国経済の拡大が、水平統合に乗った韓国メーカーにとっての、戦略的縦深性となった事は否定できない。リーマンショック前後から、日本では中進国戦略が語られる様にはなったが、その頃に於いては、韓国メーカーが築いた中進国への販売網は、相当の縦深性になっていて、日本メーカーが一朝一夕に攻めれるレベルを超えていた。また、その巨大でかつ成長する需要が、更に相手への追い風になっており、こういった新興国の需要が、更なる水平統合を加速するという連動性を産んでいたのである。また、韓国のみならず、台湾、或いは中国のメーカーが、資本市場の発達と収斂によって、資金調達面で日本メーカーと変わらなくなっていた事もこの動きを担保するものとなった。
 後になって思えば、こういった変化は、ナポレオン戦争時点での進歩した機動力に該当するものであり、既存のプレイヤーにとっての縦深性は、時代の変化によって脆く成り得るということである。日本市場という当時世界第二位の市場は、十分に縦深性があり、多くのメーカーを育める豊饒の地であったが、マザーマーケットが小さい韓国や北欧のメーカーは、逆に世界に打って出て、その縦深性を確保したということだ。その世界に打って出る余地を作ったのが、水平統合・モジュール化と中進国の発展である。この辺りは、経済産業省からも指摘が出ている所であるが、中途半端に大きい日本市場が、日本企業の海外展開を阻害し、結果として参入している市場の大きさの差で不利になるということである。
 ただ、日本市場が中途半端に大きい事のみを嘆くのは生産的では無い。むしろ、マザーマーケットの大きさを活かせなかった人災は何だったかを追求する必要がある。半導体フラッシュメモリ、液晶パネルと負けを重ねたのは、モジュール化と水平統合によって従来の戦略的縦深性が侵されたのに、投資における集中と機動による決戦というコンセプトを思い付かなかったか、決断できなかったか、或いは中途半端だったからである。水平統合モデルが当てはまる市場というのは、効率性の荒野みたいなもので、規模の利益を最大限取った大手が総取りしていく世界である。従って、規模を追う為の投資規模とタイミングが物を言う。そして一度の決戦で相手を叩きつぶせば、相手は倍賭けする資金力が無いと取り返せない。将に、集中と機動の世界そのものなのである。
 事業体としてのサムスングループはピュアプレイモデルでは無く、今や総合電機メーカーだ。よって、事業を複数持っていることそのものは悪ではない。ただ、日本の総合電機や通信機器メーカーは生まれながらの総合メーカーであって、最初から分散して事業を育成してきた一方、サムスンは、半導体での勝ちパターンと利益を次々とNAND型フラッシュメモリや液晶パネル、最近では太陽電池パネルやリチウム電池に投入し、結果的に総合電機メーカーになったという所が違う。同じ総合電機メーカーでも、日本の総合電機とサムスンの財務パフォーマンスが大分違う様に見えるのは、ここに原因がある。最初から長大な戦線を持っているのか、集中と機動によって戦線を拡大してきたかの差なのだ。結果論からすると、日本がかつて優位だった市場も、実際には当時の市場規模相応の設備能力とコスト競争力しか無く、成長を見越した集中投資でコストを下げられると太刀打ちできない程度の優位性しか無かったということである。技術力やトヨタ的な持続的な生産性改善運動は、投資によるコスト競争力に負けるのだ。これは、上流工程と同じく熾烈な価格競争を戦っている顧客の視点から見て、どちらが重要か考えれば明らかなことである。また、この敗北は、国家のレベルで見れば、日本の戦力が分散していて、まさに各個撃破されている状態を意味する。そして韓国勢の攻勢への対策も、too little too late、つまり逐次投入に過ぎなかった。そして、逐次投入しか出来なかった要因は、組織が縦割り化する一方で、トップの意志決定が中途半端だったことだと睨んでいる。
 総合何とかとか、或いは政府とか、そういう多種多様な事業を抱える組織は、複雑性のまとまりが複数有るから、必然的に縦割り化する。縦割り化するのは仕方がないが、縦割り化すればする程、トップの独自の役割が発生し、これが重要とする。なぜなら、縦割り化した中では、各事業から全社を考えた視点での戦略が出てくる事は無いからである。ピュアプレイモデルの会社の戦略が部門そのものなのに対し、縦割りの会社は、部門の戦略とは違う社としての戦略をトップと本社スタッフが考えなければいけない。集中と機動が重要な、いわゆる規模のビジネスを一部に営んでいるなら、他の部門を売却してカネを作ってでもそこに投資するか、逆にバランスシートから見ても、そういうボラティリティが高く、体力勝負な事業はするべきで無いと判断して早々に撤退するか、それは事業部を超えたトップしか決断できない仕事である。部門や省庁からの概算要求を財務省的に差し引き調整する事が経営者や政治家の主要な役割では無いのだ。差し引き調整では、自然に戦力は逐次投入されることになる。こういう経営トップの独自の仕事を、社内の一部門で長年育まれた社内エリートが担うのは、若干荷が重い。本人の資質次第で出来るも時もあるだろうが、出来ない時も多々あるだろう。一部門の事業運営はピュアプレイモデルだが、日本の大抵の企業は複数の事業を持っており、全社経営は部門の事業運営とは全く違う仕事なのである。経営管理職という管理専門の職種が米国を中心に成り立っているのは、一つにはこの全社経営と事業運営が違うという事が背景にある。そこがまだ日本は成熟しきって居ないから、お菓子屋の社長が何故IBMのトップが出来るのかという議論になったり、アップルの社長がマクドの社長になると、それだけで話題になったりし得る。マクドにとっては、社長が如何にハンバーガーを知っているかという事より、如何に消費者を知っているか、或いは如何に店舗のバイトも含めた大人数を動かせるかの方が重要なのである。そう、これまで死屍累々を重ねた半導体や液晶パネルの分野でも、シニアマネジメントが半導体や液晶のプロで無く、むしろ財務のプロあたりだった方が、規模の利益のビジネスの特質を見抜いて、資本市場からがさっと資金を調達して、適切な投資判断が出来たのかもしれない。ナポレオンの時代や、或いは水平統合とモジュール化の現代など、外部環境が大きく変化する時には過去の勝ちの蓄積がある部門のプロでは見えない、或いは認められない視点の重要度が上がるものなのである。シャープは、最終赤字をリーマンショック直後の一期に抑え込んでいるし、バランスシートも比較的良いので、他の総合電機メーカーより僕は好きな会社だけど、液晶パネルでサムスンに相当苦戦したのに、優位だった太陽電池でも苦杯を嘗めつつある。これを見ると、改めて戦力の逐次投入とリアクティブな対策というのは日本の組織とトップマネジメントにとっての宿痾では無いのか、と感じる所である。
 この宿痾を治すにはどうすれば良いのかと言えば、一つには経営管理のプロを日本人・外人の別、或いはプロパー人材・外部人材の別を問わず増やすことだろう。そして、こういうプロをクラシックな大企業のトップマネジメントに据えられる様な仕組としては、資本市場からのガバナンスの強化しか無いだろう。サムスンやLGは、必ずしも資本市場からのガバナンスが強いから適切な人材がトップになったのでは無いが、変化に対応できる人材を継続的に担保するシステムを作るのであれば、唯一可能なのは資本市場からの強い監視である。プロパーか外部かの別で言えば、東芝の西田前社長は、HD-DVDの撤退時に、欧州や再生専用機など有利な分野に限定して継続、という折衷的な部門案を蹴って、全面撤退を決断し、一人で撤退会見に臨んだ様であり、資質次第では内部昇格の人材でも十分集中と機動を重んじた意志決定は可能である。東芝が、フラッシュメモリで唯一残っている日本企業であるのも、ウェスチングハウス原発事業の買収を成功させ、世界トップシェアに躍り出ているのも、戦力の逐次投入を行っていないからである。こういう経営管理のプロたるトップマネジメントを如何に内部で育成し、それは往々にして不十分であるから、必要に応じて外部から招聘するのが合理的という判断に資本市場、或いはその代弁者である取締役が至るか。そこが出来ないと、日本の組織はまた十年、延々と各個撃破されかねない。
 また、もう一つ重要なのは財務の視点である。上記の様に、つらつらとサムスンやシャープ、東芝の事例を見てみると、投資や撤退の規模とタイミングや、M&Aの巧拙などが会社の命運を分けていることが良く分かる。これらは総じて規模を追う意志決定であり、水平統合・モジュール化と中進国の発展によって、世界はそれだけ規模の利益が重要な時代に突入しているということだ。そして、投資やM&Aというのは、新商品の開発みたいな話と比べると、かなり財務戦略よりの施策である。現代の企業経営にとって、全社戦略と財務は一体になってきている。ナポレオン戦争電撃戦の時代に、集中と機動を考えたのは、トップと参謀だったが、企業経営に置いては、それはトップと企画に加えて財務も役割を負うべきであろう。クラシックな財務とは、銀行からどう借入するかとか、部門の評価制度を作ったりとか、キャッシュマネジメントを強化したりとか、どちらかと言えば管理的なリアクティブな機能が多かったけれども、モダンな企業経営においては、投資やM&Aといったプロアクティブな意志決定を財務が行わないと、まともな全社経営は立てられない。例えば、この円高で国内の工場は赤字だけれども、そこに追いゼニを投入するよりは、がばっと強い円を調達して、海外の工場に一気呵成に投資し、自国通貨が弱い国には出来ない圧倒的なコスト競争力を付けようとか、そういう戦略は、部門では立てられず、本社の財務で無いと捻り出されない。特に、太陽電池リチウム電池はまだ投資合戦の段階だし、国内の金融は比較的安定しているのだから、強い円は海外の方が価値が活かせるだろう。ニュースでこれに類する事例を余り見ていないが、規模の利益の時代に自国通貨の強さはマイナス面だけでは無い筈である。
 最後に、逐次投入ってのは、組織的には空気を読んだ落とし所的な色彩が強い案だから、参加者の納得性は高い。部門の人というのは、大量投資しないと負ける事は判っていたりするのだが、他の事業にしわ寄せしてまでカネを用意してくれ、という稟議を書ける強者はなかなか事業部には居ないだろうし、例え書けたとしても、予算を減らされる他の事業部や、或いは企画・財務からはやり過ぎだと異議が入るのが普通である。だからあれやこれやと予算が減らされて、結果的に全員が納得するのは逐次投入だということになりやすい。日本の大企業や官僚組織が負けゲームに陥ったケースにおいて(官僚組織の負けゲームで典型的に思い出すのは、分散投資して総倒れした港湾や空港整備だろうか)、意志決定がざくっと言えばこんな感じで行われたのは想像に難くない。コンセンサスとか、全員で議論した結果とかそういう前向きなお題目がそれにはよく付される。そんな空気の中で、逐次投入案の愚を示して戒めるには、数字に基づいた証明が必須である。それを行えるのは、現場の本当の危機感(=大量投資しないと負ける)を理解した上で、数字に強く、かつプロアクティブな財務部門であろう。そして、財務マンってのは普通大人しい人が多いから、こういう人がギャーギャーとラジカルなことを言うのは天変地異みたいなもんで、まず財務にラジカルな事を言わせる権限、或いはきっかけを与え無いといけない。だから、トップが事業運営で無くて、前者経営のプロである必要があるのである。