初詣

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。卯年はとんでも無い「つうこんの一撃」を日本はおろか世界に放った年では有りましたが、人間というのは悲劇と共に成長してきた種族でありまして、この犠牲による学びによって、より悪き未来を未然に回避出来たと堅く信じる、というか信じなければやってられない年初でございます。
 さて、今年は珍しく日本に居続けた年末年始でありまして、昨年の様に派手にエジプトだのスーダンだの、一昨年の様にタイでゴルフ合宿だの、その前は確かベネズエラキューバだのと出歩かず、紅白を見て、年越し蕎麦食べて、年賀状見て、箱根駅伝を見て、という由緒正しい日本の正月を満喫致しました。
 その由緒正しき日本の正月のメインイベントは恐らく初詣でありまして、勿論僕も今年このイベントに参加したのでありますが、もともと初詣に対しては複雑な感情を持っておりました。それも変なきっかけで、ある時期、確か高校くらいだったと思いますが、ふと初詣の瞬間に、

「ここに集う人々は、みな我欲に取り憑かれ、私利私欲をただ叶えたいが為に来ている・・・!」

という思いに囚われてしまったのですね。そう思うと、わらわらと列を為して神社の階段を上がってくる善男善女が我欲に操られるゾンビの群れに見え、ちょっと僕は初詣で自分の願いを言いたい気分にはならなかったのです。今思えば、なんて厨二病、という一言で済ませられる笑い話でありますが、それ以降何となく初詣では、「みな幸せでありますように!」等と、自分より全体の幸福をなるべく願う様にしておりました。
 とはいえ、そういう子供じみた感受性というか発想は、いつしか大人の階段を上って僕もシンデレラでは居られなくなり、幸せも誰かが運ぶと信じてるだけじゃダメで、自分で勝ち取らないといけない現実も良く判ってくるにつれて、順調に失っていきました。そこでですよ。昨年スーダン帰り。初詣をスーダンでする訳にはいかない、というか北スーダンイスラム暦なので、全然正月でも無い状況だった為に、日本に帰って、初詣がてら佐野厄除け大師に行きました。正確に言えば、宇都宮に餃子を食べに行くついでに、佐野厄除け大師に立ち寄ったのですが、こういう事は正確に告白しても、誰も得をしないのは明らかであります。
 そう、話はズレましたが、佐野厄除け大師で、折角なので厄除けをして貰おうと思ったのでした。僕は、昨年厄年でも何でも無いので、方位除災というのをして頂きました。佐野厄除け大師は、関東の三大師と言いますが、元三大師こと良源を祀る厄除けで有名な天台宗のお寺でございます。その方位除災のクライマックスで、山伏が護摩を焚き、法螺貝を吹き、マントラを唱え、キエーと気合い一閃・・とまでは行きませんでしたが、お坊さんが普通におごそかにこう仰いました。

「これから加持祈祷に入りますが、願いのある方は、なるべく具体的にその内容を設定し、どうやったらそれが叶うのか、そこまで想像して心に念じて下さい。ぼんやりとこうなったらいいな、では仏も後押しできません。心の中に具体的な方法と目標が有って、初めて願いは叶う方向に進むのです」

 念ずる前に思わず納得してしまいました。達成する内容とそれを達成する方法が、自分で判ってないものは達成できない。至言でございます。ぼんやりとこうなったらいいな、という思いを抱き続けて、何となく幸せだったり、不幸せだったりして、人の一生は過ぎていくものでございます。そんな人生でも悪くないと思う一方で、何かしたいんだったら、その何かを定義して、進む方法を固めて、それを実行しない限り、その何かは大抵達成されない。当たり前ですが忘れがちな事であります。果たしてこのイベントは、加持祈祷なのか、自己啓発セミナーだったのかは良く判りませんでしたが、確かに御利益のある内容で有ったかと思います。
 そんな訳で、初詣っちゅうのは、絵馬とかも含めて改めて考えると、神仏にお願いするという場を借りて、一年に一度、何らか具体的な願いを改めて自分の中で整理する、そういう場として機能してきたのかなと思います。日本人の生活の知恵と言っても良いかもしれません。それを我欲と呼べばそれまでですが、欲も整理されれば、物事を動かす力となる。そんな中で叶った願いが大なり小なり歴史を動かしてきたのでしょう。
 さて、こういった経緯を踏まえての今年の初詣。僕は、いつもの「みな幸せでありますように!」というぼんやりとした願いに加えて、極めて具体的な目標と手段を改めて考え、神仏の前で披瀝しておきました。そんな、正月でありました。