遥かなるナガランド

ナガランドはインパールのすぐ北にある。


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世界三大悪路

 それは、悪路だった。トヨタ製の4WDは、いつしか毎時40kmを超えなくなり、そしてその上限は直ぐに早足で歩く程度になった。それでも身体はよく宙に舞い、そして左右に揺れた。踏ん張っている内に、血行が良くなって全身が痒くなり、じきに体幹の筋肉から疲れてくるのを感じた。この動き、何かに似ていると思ってしばし考え、パナソニックのジョーバに似ている事に気付いた。体幹の筋肉を鍛えるというのはかくも辛いものか。豊かな国のガラパゴス的究極めいたジョーバを、この辺境の悪路で思い出し、僕は揺れに舌を噛みそうになりながらも、にやにやを抑えきれなかった。
 世界三大悪路はどこか。20世紀の終わり、そんな尽きぬ議論を安宿で知り合った日本人とよくした。有名なのはスマトラ、特にドゥマイからブキティンギまでの道だが、あれは世界三大とまでは言えないという意見が昔から多かった。カオサンから出てマレー半島縦断を終え、スマトラに渡ってバリを目指す素人が、最初に出会う悪路だから過大評価になると言う人までいた。ポイペトからシェムリアップまでは、かつては酷かったが今や完全舗装路に変貌した。中国のジャンピングバスも悪名高かったが、今はもう飛ばない。中国の発展は、中国のバスから翼を奪ったのだ。今の中国には、翼の折れたバスが走っている。後はマザリシャリフからヘラート辺りが舗装されれば、アジアからは幹線の悪路は無くなり、アフリカと中南米にその座を全て譲るのでは無いか。そんな風に思っていたが、どっこいインドとミャンマー国境地帯には幹線では無いが、悪路が残っている。
 僕はナガランドのモン村を目指していた。Twitterでその紹介を見て、面白そうだと思ったのが切っ掛けだ。ナガランドは、ミャンマーと国境を接するインドの東端に位置する州である。ミャンマーという国は陸路を閉ざした国で、インドとミャンマーの国境、及びミャンマーとタイの国境は、昔から開かずの国境として、ユーラシア横断を目指すバックパッカーには知られている。ここが開かないから、西へ向かう旅人はロシア経由でシベリア鉄道を使うか、中国を経由するルートを取らざるを得ない。中国からのルートは主に3つだ。4900mのクンジュラブ峠を超えてパキスタンに向かうカラコルム・ハイウェイか、ヒマラヤ超えでネパールに出るか、あるいは西トルキスタンから天山北路を辿ってカスピ海を越えるか。どれも難路である。つまり、ロシアは欧州と繋がり、中国は辛うじて南アジアと中央アジアに繋がっているが、東南アジアは南アジアと繋がっていないのである。この、ユーラシア横断を目指す旅人が、中国から南下して東南アジアに行くと、ミャンマーの存在でふん詰まりにされ、中国に戻らざるを得ない事は、昔から旅人にはよく知られている。なので、懐かしい電波少年で、猿岩石があたかもこのミャンマー−タイ国境を越えた様な描写をした時は、直ぐに嘘がバレて演出でござると訂正を出す羽目となった。その開かずの国境の南アジア側が今回の旅の目的地である。ずっと外国人入境には七面倒くさいパーミットが必要な地域だったが、2011年から不要になったと聞いた。コルカタのパーミットを出す政府機関にも電話して確認した。しかし、在東京インド大使館のウェブサイトには、パーミットが必要と大書してある。バーチャル世界ですら、そこはインドである。
 目的地たるナガランドのモン村を中心とした地方は、25年前まで首狩りの風習があった地域と聞く。ナガ族の青少年は勇気の印として、近隣の村人の首を狩ってきたらしい。最奥地のロンフアという村まで行けば、人間の干し首が未だに見られると言う。また、顔に入れ墨を施した、高砂族エチオピア少数民族の様な人々も居るらしい。この様に、日本に伝わってくるナガランドの話は、おどろおどろしい未開の地イメージと紐付いていた。多分、実際にはもっと人の良い田舎の人々なんだろうが、書き物のネタ或いは旅行社の商売的には、エキゾチシズムと結びつかざるを得ないのだろう。それは仕方ない。ただ、こういうネタがある地域だと、いずれエキゾチシズムを求める旅人が押し寄せて、きっと現地の人の人相が悪くなる気がした。旅人が増えると、マサイの一部の青年の様に、赤い民族衣装を着て、伝統的なアクセサリーを付け、勇ましく槍を持ち、そしてそれを遊牧に用いず、観光客に写真に撮らせてカネを取る様になるのだ。生きる上でそれは仕方ない。だけど、興としては、行くならより早く行くべきだと僕は思った。
 モン村は、ナガランド州の中でも辺境である。本来ならナガランドの中心地であるコヒマからリーチする方がより容易な筈だ。ロンリィ・プラネットには、コヒマには現地の風俗に通じた旅行社があると書いてあり、僕はそこにモン周辺までの自動車とガイドのアレンジをお願いする積もりだった。しかし、僕はコルカタの寺院で、山羊の生け贄の儀式を見ている内に、コヒマ近隣までのフライトに乗り遅れてしまった。翌日のフライトは無い。限られた旅程の中で、僕の選択肢は、もはやナガランドと州境を接するアッサム州東端の街、ジョルハットまで飛び、そこからモン村へアタックする事以外には無かった。日本語はおろか英語にもここを抜けた旅人の情報は無い。しかし、地図上での距離は、コヒマからモン村より、ジョルハットからモン村の方が近く、Google Map上にジョルハットからモン村まで道らしきものはある。距離が近くて、道があれば辿り着ける筈。そんな常識に賭けてのフライトの結果が、悪路であった。ちなみに、本来行く筈であったコヒマからモン村までの道も本によれば苦痛を伴う悪路の様との事である。
 アッサムはナガランドの西だが、東インドの中でも東端と言ってもいい位置だ。しかし、文化は東インドの中心地であるコルカタと基底に違いは無い。南インド東インドの差ははっきりと判ったが、東インドの中でのコルカタとアッサムの差は、人々の顔も、食べているものも、石造りの建物も、日本人の目には区別が付かなかった。それが、悪路が始まるあたり、アッサムとナガランドの州境を超える所で、全てががらりと変わる。人の顔が、彫りの深い南アジアの顔から、日本人に良く似た東南アジアの顔に変わった。石造りの家が、木と草葉で出来た、高床式の家に変わった。僕はミャンマーで昔見た田舎の風景を思い出した。広大なインド世界はインドとミャンマーの国境で終わるので無く、アッサムとナガランドの州境で終わり、ここからインドシナが始まるのだ。ここにインド果てインドシナ始まる。
" Onde a India se acaba ea Indochina comeca "
 インドシナが始まってから、5時間の悪路の先に、モン村があった。切り立った山の斜面に家がへばりついていた。隣の家との関係は横でなく、垂直だった。山の村の空はひたすら近く、青い。ここは天空の村だ。そう思って空を見上げた。空には鯉のぼりの竿竹みたいなものが立てられていて、竿竹の先には赤い星の飾り物が輝いていた。クリスマスを祝うオーナメントだ。きっと、ここは空に近いから、キリストを空に向かって祈るのだ。そんな風に物思いつつ空を見つめる僕の顔を、自分に良く似た顔立ちの少女が、まじまじと見つめた。モン村はキリスト教を信じる、天空の村だった。

悪路でもオートリキシャーは疾走する。

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普通に萱ぶき的な家づくり。

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モン村から10数kmの距離にあるタムニュー村には王が居る。王の家の前の鐘は何が為に鳴る。

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ナガランドの猫の額ほどの平野は主に家になる。

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牛だったものが見つめる。

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タムニュー村の王に椅子に座るよう、薦められた。

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タムニュー村の王からお茶でもてなされる。たぶん、200年前も300年前もこうして異邦人はお茶でもてなされていたんだと思う。インド式のチャイで無く、ストレートの紅茶とほうじ茶の間位の素朴な味。お茶の味でも、インドを脱し、甘くしないでお茶を飲む地域に入った事を感じる。

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王の家にあったが、多分これは多分脱穀に使うのだ。脱穀機を持つ事が権力の源泉なのだろうか。

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最近は首狩りも無くなり、タムニュー村では牛の頭が飾られている。

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昔はこういう写真いっぱい撮ったけど、最近は人にカメラ向けるの躊躇する様になってしまった。顔立ちはインドのそれでは最早ない。

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この星はクリスマスの祝福なのだよ。

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谷間は靄に沈み、日は谷間の果てに沈む。

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朝も谷間は靄に沈むのだ。

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モン村でベストの宿はシャワーなしの水桶式。前に泊った人は20日前。

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起伏ある丘をナガ族が開拓していく。

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天空の村は天空に近い所から朝になるのだ。

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