20世紀の復活

 つい先日も格差の事を書いたが、10年位前にアメリカでプア・ホワイトが再びクローズアップされた頃、まさか日本でワーキング・プアの問題が出現するとは夢にも思っていなかった。いま、ワーキング・プアの中では、増加する一方の非正規雇用が最も問題視されている。非正規雇用は、福利厚生に劣り、能力訓練の機会が不足しているから、若年層で働いているにも関わらず、賃金上昇の機会を奪われたまま、健康で文化的な生活を送る最低限度のラインを彷徨っていることが多い。この層が、これまでも存在した、単に産業構造の変化についていけなかったり、スキルセットが世のニーズと合っていなかったが故の貧困を含みながら、広義に格差の拡大として捉えられている。
 前にも書いたが、労働市場が完全市場に近くなればなるほど、結果としての格差は拡大する。19世紀には、労働力しか売るものがない労働者が資本と生産手段を独占する資本家に搾取される構造だったが、20世紀に入って、経済のサービス化が進展すると、そもそも第二次産業を前提とした労働者というカテゴリーが縮小し、実証した事は無いが、多分19世紀の第二次産業の労働者と比べると、サービス化された経済における「ビジネスパースン」の一人あたり付加価値が大きく、結果としての労働分配が増大したであろうことで、問題は少なくなったかの様に見えた。それが21世紀に入った現在、知識自体が主な生産手段となり、その知識がITによってコモディタイズすると、20世紀の雇用の大半を占めたホワイトカラーが知識からより効率良く生産をする層と、その層をサポートする為の単純なサービスを行う層に分解されつつある。
 また、第二次産業においても、資本の自由化や業務標準といったノウハウのソフトウェア化、或いは生産技術そのものの高度化によって、労働自体のバリューが更に下がり、また国境を越えた生産の移転が容易になった。これにより、世界で最も労働コストが安い所の水準に向けて、あらゆる国の賃金水準は収斂に向けた圧力を受ける事になる。*1
 これらは僕の今ぱっと考えた状況認識だが、この状況を打破するのは実に一国家の努力を超えている事に気付く。一国家の努力を超えた、時代の動きというのは、なかなか方向を変えるのは難しいものだ。この格差の拡大は、あらゆる先進国が共通して直面する問題になり、問題の深刻度はしばらく増すばかりであろう。90年代後半にソビエト連邦が崩壊し、マルキシズムに対する資本主義の凱歌が上がったが、この様なサービス労働者も含んだ格差の拡大は、再び富の再分配を求める思想・政治勢力に対して、追い風の状況になる。
 また、単純労働をする移民と比較的富裕なネイティブという貧富と人種の対立という20世紀的対立のテーゼも勿論引き続き存在するのだが、従来どの国においてもネイティブが大半を占めたホワイトカラーが分化する事で、貧困なネイティブの国民というのが増えていく事になる。これは、左派政治勢力にとっては逆に不利になる。貧困なネイティブの国民は、移民排斥など急進的な極右勢力の支持者となる事が多いからだ。
 僕は、アメリカでプア・ホワイトが多い南部に支持基盤のあるブッシュ政権が誕生したり、日本でも僕が子供の頃からすると考えられない位右傾化が進んだ事の背景には、シンプルにこれまでの反動という以外に、90年代から徐々に経済的に困窮するその国のネイティブ出身の国民が増加しつつあるという、デモグラフィックな理由が一つある様に思う。これが事実だとすると、国家社会主義の様な、思想的には右だが経済政策的には左よりの政策を標榜する勢力が、今は該当するものが思いつかないが、どこかに産声を上げて、徐々に力を付けて来る時代が到来するかもしれない。国家社会主義がすなわちナチズムだと短絡すると、泉下の高畠素之あたりに怒られそうだが、大衆扇動的な政治、排外的な主張など、すでに過去の遺物だと思っていたが、21世紀にも歴史は繰り返す可能性は十分ある。こんな予想が大外れになればいいが、いま歴史が劇的に変化している瞬間だけに、色んな事を十分過ぎるほど注意深く見ていかないと、悲しいほど簡単に、国家同士の戦争が再発するかもしれない。
 てな訳で、こんな事を考えるには全くもって自分の知識が足りないと痛感し、ガーナには資本論を持ち込んで学生時代爾来10年ぶりに読みふけっていたのだが、次は北一輝でも読んでみようかしらん。

*1:2012年8月注記:これは誤りである。そういう産業もあるが、そうで無い産業も多い。