住宅の外観を分類する

白亜の豪邸

住宅はアートよりクラフトであると言ってみたが、アートにしてもクラフトにしてもデザインの要素がある。デザインは難しい。なぜなら、イリノイ工科大デザインスクールを出た訳でも無い浅学非才の身に、デザインの言語化という壁が厚いからである。「なんとなくオシャレ」「なんか凄そう」という解像度の低い言葉で建築家と対峙するのは、目隠しをして地雷原を突き進むに等しい。かと言って、目に見えている範囲だけで語ろうとすると、どうしても個別のアプリケーションの話になりがちだ。結果として、住宅のデザインという壮大なテーマを、ついつい『コンセントの位置』や『壁紙より塗り壁』といった局所的な話として、ネット論争は明け暮れる事になる。
遡ってみると、住宅の外観デザインについて、僕が最初に感銘を受けたのは、10年ほど前、当時住んでいた西麻布で、とある路地裏の住宅を見た時だった。白亜の豪邸という、昭和の週刊誌が好きそうな古い言葉がぴたりと当てはまる作りで、しかも豪邸あるあるの「高い塀の向こうに全てを隠す」方式ではなく、割合オープンにその姿を見せてくれていた。その端正な姿を街に晒す潔さに、当時近くを通るのが楽しかった。犬の散歩でもないのに、意味もなくその前を歩きたくなる家である。今回の家作りの過程で、それがアーネストアーキテクツの設計だと知った。アーネストは豪邸を色々やっている老舗らしく、なるほど、建築設計事務所にも老舗があるのか。和菓子屋みたいだなと思ったものだが、実際あの手の家には“お取り寄せできない上生菓子”みたいな独特の雰囲気がある。大きく、白く、端正で、そしてどこか分かりやすく「豪邸」である。これはかなり重要で、見た瞬間に人が「あ、これは立派なおうちですね」と理解できる。建築において、分かりやすさは時として最大の武器である。

まさしく白亜の豪邸

概念としての邸宅

それから数年経って、今度はX、昔の名前でいうTwitterで流れてきた二つの住宅にも目を引かれた。ひとつはSNS上でかのタキマキ邸と噂されている住宅、もうひとつはAPOLLO/黒崎敏による恵比寿の住宅《ESPRIT》である。これらも豪邸ではあるだろうが、先ほどの白亜の豪邸とはまるでテイストが違う。もっと抽象的で、直線の操作や素材の対比や開口の切り方で勝負する、いわば「概念としての邸宅」である。どちらも格好いい。だが格好よさの種類が違う。西麻布の白亜の豪邸には、家であること、しかもただの家ではなく立派な家であることを、かなり積極的に主張する具体性があった。一方で伝タキマキ邸やAPOLLOのESPRITには、家というより、何か都市に差し込まれた抽象物体を見る感じがある。うっかりすると現代美術館の別館か、お金持ちのギャラリーにも見える。住宅なのだが、住宅記号が薄い。例えば、屋根が見えない。ここが面白い。

伝タキマキ邸

縦長だとESPRITが効く

昨年10月になって、いよいよ具体的に家を建てようかという話になってからは、その違いがますます気になり始めた。モダンリビング誌をめくり、GoogleやSNSで検索し、アルゴリズムに「こいつ家建てるな」と見抜かれて大量のターゲティング広告に晒された結果、印象に残ったのが、NAP/中村拓志の《葦垣の家》と、ミサワホーム内のCDO(Century Design Office)という工業化住宅でなく一点ものを作るデザインチームの《内に開き緑と暮らす家》である。前者は、10年以上完成しない千葉のサグラダファミリアこと、ex-ZOZO前澤邸を設計しているともされるNAPによる、和の豪邸だ。「日本的なるもの」を抽出して、洗練して、家でなく名刹スケールにまで巨大化させた感じがある。後者は、隣家に対して高い壁を立ててプライバシーを確保しつつ、内側には三面ガラス張りのリビングを持ち、庭と強くつながる構成になっている。「都市の制約を受け止めたうえで内側に楽園を作る」感じだ。線はモダンだが、プライバシーへの意欲は実に人間的だし、狭くて密集する日本の都市から派生したローカルな息遣いも感じる。渋谷駅と横浜駅の次に完成しない話がバズる前澤邸は、もはや楽園というより神話の領域だが、それはさておき、この二つもまた、どちらも良い。だが良さの種類は違う。

葦垣の家。延床面積600㎡。

ミサワのCDO。土から離れては生きられないけど、隣家からは離れたい。

こうして並べてみると、建築家に自分の好みや、やりたいことをどう伝えるべきかは、改めてかなり難しいと感じた。「デザインが良い」「おしゃれ」「上質」「高級感がある」といった言葉は、褒め言葉としては便利だが、設計の打合せではほとんど役に立たない。なぜなら、名のある建築家が設計した作例にはだいたい全部当てはまってしまうからである。「かっこいい家がいいです」と言われて困る建築家の気持ちはよく分かる。医者に「健康になりたいです」と言うくらい情報量が少ない。画像の切り抜きをたくさん渡す手もあるが、軸が定まっていない雑多なイメージをどさっと渡されても、受け取る側はかなり困るだろう。Pinterestのボードがそのまま建物になるなら苦労しない。そこで、どんな要素を自分が好むのか、どう建築家に話すと誤解なく伝わるのか、そのために難儀だった分類軸の言語化を、ついに試みる事にした。

モダン↔︎クラシック

まず、APOLLOの住宅を見て感じた「抽象的」という言葉から出発してみる。抽象的なデザインの対極には、家であることを主張する具体性を持つデザインがありそうだ。そして家であることを主張するためには、人々が「家らしい」と認識する地域的・伝統的なデザインに、ある程度は依拠せざるを得ない。屋根の形や大きさ、軒の出、窓の取り方、素材感、色、左右対称性、玄関の扱い。そうしたものを通じて、和風なり洋風なり、ローカル色が出る。逆に抽象的なデザインは、世界のどこに建っていても成立しそうな、普遍性、あるいはインターナショナルデザイン性が強い。もっと包摂的な概念で言い換えれば、抽象的・普遍的なデザインはモダンであり、具体的・地域的なデザインはクラシックである。抽象的なデザインは、地域の文脈から離れても成立する普遍性を持つ。これは20世紀以降のモダニズム建築の特徴でもある。逆に、家であることを主張する具体性は、多くの場合その土地の伝統的な住宅形式に依拠している。

この軸で見ると、先ほど挙げた住宅群が少し整理できる。西麻布で見たアーネストの白亜の豪邸は、クラシック寄りである。もちろん神殿のような列柱や完全なシンメトリーを持つ純古典主義ではないが、少なくとも「これは立派な邸宅である」という認識を呼び起こす具体性を備えている。曲面、白い外壁、ボリューム感、家の中が見える大胆な開口部、街に対して見せる表情。これらが合わさって、邸宅という記号を成立させている。一方、伝タキマキ邸やAPOLLO《ESPRIT》は、よりモダン寄りだ。箱の明快さ、要素の削ぎ落とし、開口部の制御、抽象化された外皮。家であると同時に、ひとつの造形物でもある。《葦垣の家》は和の言語を使っているのでクラシック寄りだが、単なる現代に転生した数寄屋にはなっていない。和風旅館みたいで終わらず、現代建築として踏みとどまっている。逆に《内に開き緑と暮らす家》は、庭との関係性はとても生活的でプライバシーを重視する怖れみたいな感情からスタートしてる筈なのに、外観表現としてはかなりモダンである。中身は人間臭いのに、顔つきはクール。こういうズレもまた面白い。
この分類を、建築家だけでなくハウスメーカーまで広げてみても、当てはまりは悪くない。たとえば鉄骨造のヘーベルハウスは、よりスクエアで抽象的な、箱に近いモダンなデザインの商品作りが得意である。もちろん全部が全部そうではないが、少なくともWebページの上の方や広告で推してるのは、「堅牢な都市型ボックス」の系譜である。黒っぽい箱、フラットな面、水平垂直の強い構成、抑制された素材数。つまりモダンだ。これに対して木造の雄、住友林業は、和風建築そのものとまでは行かなくても、より日本の邸宅感を主張するクラシック寄りのデザインが得意である。軒、木、庭との関係、横に広がる安定感、落ち着いた陰影。どこか「ちゃんとした家」という感じがする。三井ホームはさらに分かりやすく、洋館感の強いデザインが得意であり、和洋の違いはあれどクラシックに分類できるだろう。レンガ調や切妻、窓まわりの装飾、輸入住宅的な空気。つまり、モダンとクラシックという軸は、建築家の作品を見る時だけでなく、ハウスメーカーの得意領域を理解する時にもそこそこ有効なのである。

如何にもヘーベルハウス的な。

如何にも住友林業的な。

如何にも三井ホーム的な。

自分なりのデザインの軸と言語化

自分もサービス業的な所があるので、プロダクトは自分の頭の中で可変的である事は良く理解しているが、建築というのも施主の依頼を形にする仕事だから、スタイルは可変的である様に見える。「この人はこのスタイルしかやらない」「隈研吾は木を貼るデザインしかやらない」と決めつけることはできない。あくまで「この作例はこのスタイルである」という話に過ぎない。洋館的な三井ホームだって、最近の商品は箱的なモダンさがあるし、無理言えば箱的なヘーベルハウスを、豪農の日本家屋に寄せたデザインで建ててもらうことも出来るだろう。和食料理人にハンバーガーを作らせた漫画があったが、そういう事をすると、肝心のバンズが不味い事に気付かないという漫画みたいなリスクがあるのかもしれないが、少なくとも対応は可能な筈である。
さて、このモダンかクラシックかの軸を作って、実例や建築家やハウスメーカーをあれこれ当てはめてみたが、これが実に楽しかった。分類は楽しいのである。人はラベルを貼るのが好きだ。ホームパーティに持ち寄ったワインを産地と味の傾向で並べるように建築家を並べ、「これはモダン」「これはクラシック寄り」「これは和モダン」「インターナショナル×クラシックというのは概念的に存在するのか?」などと言っていると、頭の中の散らかった印象がだんだん整理されてくる。ちなみに、ホームパーティでワインを分類して楽しんだ事は無い。

そこに、あるフェルミ推定によると、コンサルタントが作る2軸の整理の50%に価格が含まれるそうなので、そのスタンダードに倣って、価格帯の軸を掛け合わせてみたら、使えそうなポジショニングマップができた。もちろん価格は、営業マンに聞いたり又聞きしたり想像したり、デフレ時代の建築を今の価格に適当に換算したりもしたもので、だいぶ怪しい。基本的には住み始めるまでの総コストで、ハウスメーカーは本体価格だけではなく付帯工事も含んだ総額、建築家はRC造前提で建築・設備工事と設計費を含めてざっくり考えている。ハウスメーカーには、ヘーベルや住友林業より廉価でかつ建設棟数が多いプレイヤーが存在するし、無数の工務店も市場で大きな存在感があるが、プレイヤーの傾向をまとめたいのでなく、デザインの判断軸を考えるのが目的の為、上記に挙げたメーカーまでの価格帯で区切った。が、他のプレイヤーが得意なデザインも左右どちらかの傾向はある様に見える。

モノトーンの箱だけだとモダンに見え、色がついて勾配屋根やアールがあるとクラシックに見えるだけの気もしてくる図

さて軸は出来たが、僕はどうしたいのか。最初にビビっと来たのは白亜の豪邸だったものの、今はタイムレスさを追求したい為、右側を志向すべき様である。だが、右を極めれば良いかと言われると、家作り初期にイメージにしたパークマンション檜町公園はインターナショナルさと邸宅感を切り取って、上下にそれぞれ差し込んだ様なデザインになっており、その断片性によって右寄りながら寄り過ぎてないのがタイムレスさの源泉の気がした。また、価格帯が上がるとモダンさなりクラシックさが純化される印象ではあるが、極上の住宅を幾つか見た上で、上に突き進む事への経済面以外での躊躇も出てきた。こ、これはお金の事情じゃないんだからね!的な負け犬のオーボエを吹きたい訳では無い、その真に驚くべき独白を本稿で書くには、このブログのマージンとパディングは狭すぎる。

住宅をアートにすると、つらい

古典的には住宅はアートではない

ところでタイムレスなデザインの住宅を建てたいのだがと知り合いに相談した時、「芸術作品が作れるね」と言われた事がある。相手は褒めていたのだが、何かに引っ掛かった。後から気付いたが、住宅、あるいは広げて建築には確かに一部に「芸術性」はあるが、芸術作品そのものではないからだ。少なくとも、絵画や彫刻と同じ棚には置けない。住宅は雨風をしのぎ、家族を守り、夜中にトイレへ行き、宅配便を受け取り、洗濯物を干し、子どもが宿題をし、夫婦が喧嘩し、仲直りし、そして老いていく場所である。そして、芸術作品は一般に「トイレに行く場所」の様なものでは無い。住宅とは、生活の摩擦と一体化している。芸術作品は、その摩擦に耐えられないから芸術に足り得る。絵画とか彫刻とか音楽とかは直接の生活の実用を目的とせず、ただ感情を動かす為のみが目的として存在しているから芸術作品なのである。

この話を、日本でおそらく最初に真正面から提示したのが、1910年代後半の「建築非芸術論」だ。要旨は割とシンプルで、芸術は感情を伝えるものだが、建築は実用性が先に立ち、感情伝達が主目的ではない、という立場である。言ってしまえば「建築は芸術じゃなくて、生活の道具であるべき」という話で、当たり前体操である。が、当たり前だからこそ議論に強い。典型的には東京駅舎の様な、文明開化後に流行した装飾的な洋式建築がひと段落し、鉄筋コンクリートが普及しつつあったご時世を捉え、この論考と数年遅れて発生した関東大震災以降、地震災害や火災が多い日本の建築は、意匠より質実剛健な構造を重視すべきとの風潮が高まったと言われている。ところが面白いことに、1962年には「住宅は芸術である」と言い切った建築家もいる。これにもご時世は影響していて、当時の画一的な公団住宅やプレハブ住宅(大量供給の、同じ顔をした家々)へのアンチテーゼとして提示された様だ。住宅は「便利に住むための機械」ではなく、「人間の生を確認する精神的な舞台」であり、「社会や時間の変化に動じない、確固たる形式(永遠性・完結性)」を持った住宅は芸術の領域であるとしている。住宅を“消費財”から“文化財”側へ引っ張ろうとする宣言である。

こういう住宅や建築に関する論理の蓄積は、やはり西洋が本場である。現存最古の建築本は、カエサルアウグストゥスに仕えたローマの建築家ウィトルウィウスが紀元前に書いているのだが、その中で建築は「堅固さ」「実用性」「美しさ」の三つを備えていなければならない、と述べられている。…実に反論の余地が少ない。MECEという言葉が生まれる二千年前に、既にMECE感がある。英語圏におけるラテン語っぽさを日本語で出すべく漢語を用いれば、建築の要素は「強・用・美」というフレームワークである。紀元前に出た人類最初の建築本で議論、以上終了、みたいなのが出てしまうのが西洋文化の厚みで、先行するアリストテレスの目的論・四因論、キケロの修辞学、ピタゴラスの数理的調和なんかの蓄積から生まれたのだろうが、その推察は本記事の射程から大きく外れるので捨象する。それより重要なのは、美しさ(つまり芸術性)は建築の要件に入っているが、実用性も同列に入っていることだ。実用性と同列の時点で、絵画や彫刻のような「実用されない芸術作品」とは別カテゴリーという事を暗示している。

余談ながら、このウィトルウィウスは建築家なのに設計した建築物はずっと一棟も見つかっておらず、この建築本と、本の中で人体のプロポーションを描いた「ウィトルウィウス的人体図」でこの二千年くらい有名だった。建築家の人生、理不尽である。だがしかし、イタリアのファーノで発掘されたバシリカの遺構が、彼が設計したものだと、つい先月認定され、二千年越しに「やっぱ建築家だったんだ」と確認された所なのである。この言葉、生前に言ってあげてほしい。いや、生前はみんな知っていたか。

ローマのChoo Choo TRAINことウィトルウィウス的人体図

ただ、議論は完全には終わっておらず、近代の西洋でもこの論争は続いていて、「機能を超えた感動や象徴性こそが建築の本質で、それは芸術だ」というイデア論というか本質主義的反論や、「自転車置き場はBuildingだが、リンカーン大聖堂はArchitectureである」みたいな場合分け論がある。しかし全般には、特に機能主義寄りの立場からは「建築のうち芸術に属するのは、機能の無い墓と記念碑だけで、それ以外は芸術の領域から除外されるべき」という考え方が根強い様だ。カテゴライズするならArtではなく、CraftとかDesignだろう、という態度である。住宅を物質的に捉えるなら、この解釈はかなり自然だと思う。

観念を立ち上げた人たち

ところが、便器にサインして「泉」と名付けて展覧会に送った人のおかげで状況がややこしく進化してしまった。美しいものだけが芸術ではなく、意味を持つこと、観念を立ち上げて感情を動かすことも芸術になり、現代アートが始まってしまったのである。ついに人類は、「トイレに行く場所」の様なものを芸術作品にしてしまったのだ。こうなると「機能か芸術か」という二項対立は、急に古くなる。むしろ「機能を徹底的に突き詰めた先に意味や物語が立ち上がる」、あるいは逆に「意味や物語を実現するために機能を徹底的に突き詰める」という、より高度なアウフヘーベン(統合)が提案される。ここが現代建築が面白く、かつ下らないところで、そして著名な現代住宅が“芸術っぽく見える”理由でもある。OMA創始者レム・コールハースプリツカー賞建築家だが、この手の提案が本当に秀逸である。施主の特殊な要望や敷地の悪条件といった「制約(機能的な問題)」を、あえて過剰に解決することで、形態がアートになり、物語が生まれる構成にしてしまう。ボルドーの家では、車椅子の施主のために、書斎全体がリフトとして三つのフロアを移動する「動く建築」を作った。ただのバリアフリーじゃなく、障害を逆手に取ったダイナミックな空間である。ダラヴァ邸では、施主の矛盾した要望を叶えた結果、親と子の部屋が独立した箱になり、屋上のプールを、家族の欲望と分断を象徴する“中心装置”として据えた。「一つの家族=一つの塊」という常識を破壊し、家族の心理的距離感を建築化している。コールハースが作っているものは、伝統的な強・用・美にそのまま当てはまらない。用と観念的な美を統合している。その結果、住宅の新しい要素として「住人にとっての意味や物語」を創出している。このトレンドは、世界で最もプリツカー賞受賞者を輩出している極東の建築大国にもあって、施主の特殊な要望や敷地の悪条件といった制約を、あえて過剰に解決して、かつその解決策が他への広がりがある建築は、建築賞において評価されやすい。

ダラヴァ邸。プールの延長線上にエッフェル塔が見える。

コールハースが設計した2つの住宅も、それぞれヨーロッパの建築賞を取っている。住人である家族を超えて、ボルドーの家は障碍者の生活を、ダラヴァ邸は家族のあり方を問い直し、社会への批評性を内包している点が高く評価された。住民個人の小さな物語から射程を広げれば、社会との大きな物語やエンゲージメントが論点になるのは自然である。批評性以外にも、地域景観に寄与するデザインや、死角を作らない・夜に明るいといった治安への貢献、エネルギー効率が高くCO2排出量が少ないなど持続可能性への配慮も立派な社会とのエンゲージメントだ。こうして整理していくと、ウィトルウィウスの古典的三要件(強・用・美)に、現代的な高次の要件として「住人の意味や物語」「社会との関わりや還元」を追加したくなる。するとスシローの悪口のようなマズローの欲求五段階説に、少し似た宅建設の欲求五段階説を思いつくが、低次の欲求が満たされた後に高次の欲求に手を伸ばすマズローの構造が、住宅建築では成り立たない。

ボツになった、たてんどマズローの五段階説

高次の欲求を満たそうとして低次の欲求を気軽に破壊する時もあるのが建築家(たてんど)で、モダニズムの象徴たるサヴォア邸は「美」だが、雨漏りして「用」を為さずに訴訟になった。実はサヴォア邸から車で30分と近接するダラヴァ邸は、サヴォア邸、ファンズワース邸、フィリップ・ジョンソンのガラスハウスをポストモダン的断片性を持って混ぜ、家族の分断と欲望をそのまま形にし、近代建築の五原則を悪意を持って翻訳し直した様に見える。たてんどマズローには、安い黄色い皿に満足した後に高い黒い皿を食べる安定したシークエンスは無く、黒い皿を食べる為に黄色い皿を破壊する荒ぶった世界観なのである。この手の現代の名作住宅におけるその荒ぶりを理解した後、自分の建てる住宅には、芸術作品になるまでの意味や物語は過剰だと感じ、古典的な三要件を揃えた上で、スシローのカタラーナアイスブリュレの締めとしての存在感程度では意味や物語も統合するバランスが良いと思った。美味しいよね、早めのカタラーナアイスブリュレ。

今後考えていくフレームワーク

家作りを始めて、間取りとか工法とか断熱とかインテリアのテイストとかの主戦場に打って出る前に、僕はまず建築の歴史や思想の理解に努めた。個別のアプリケーションを考える前に全体のコンセプトをまとめたかったからである。そして、コンセプトをまとめる上では評価軸を定める必要があった。個人の快不快を超越した評価軸は、歴史や思想の蓄積を参照して定めるのが適切に思えた。それは、たてんどマズローの五段階図でなく、ウィトルウィウスの古典的三要件に、それを観念にアウフヘーベンした意味や物語を加えた四要件を、それぞれ住人の視点と社会の視点から評価する八分図が漏れもダブりも少なそうだ。

私製・住宅コンセプトの八分図(CC BY-SA)

一項目を例にとって、社会の視点からの堅固さって何だろうとか改めて考えてみると、物理の堅さで言えば、東京大空襲から周辺住人を守ったイーグルビルとか、2015年の鬼怒川決壊時に住人を守っただけでなく、流されてきた他人の家を止めた奇跡の白い家などが思いつく。堅固な事が有事の際に社会にとってちょっと良い働きをした事例だ。加えて、堅固さをレジリエンスと捉えれば、環境性能が高く、CO2排出量が少なかったり、雨水枡があって上水使用量が少ない家とかは、社会のレジリエンスに貢献しているのだと思う。更なる温暖化とそれに伴う都市災害の増加が予測される昨今、自利が他利となる家が増えるのは良い事だろう。この様な形で、以降この八分図を用いて自分の考えを整理していこうと思う。

鬼怒川の奇跡の白いヘーベルハウス(重量鉄骨造)

Old is Gold

家を建てることに決めてからというもの、僕のブラウザのブックマークは、かつてのカメラや旅の情報から「家づくり」一色。字一色ツモ状態になってしまった。10年前に建売戸建を買った時以来だ。10年前の僕の興味は、断熱や空調であった。RC造は躯体の熱容量を生かして外断熱であるべきだが、コンクリートで断熱材をサンドイッチする高価な工法もあるとか、大手ハウスメーカーはなぜ断熱性に優れた樹脂サッシを使わないのかとか(高気密高断熱ブームの現在は広範に採用されている)、全館空調の種類はとかを解説している昔のサイトがブックマークされている。だが今回は、もっぱらデザイン。RC造でタイムレスなデザインで戸建を建てると決めた以上、デザインの考え方や潮流についての記事が大量にブックマークされた。そこからのインプットを踏まえて、何がタイムレスなのかを考えている。一体何が時を超越するのだろうか。

古びないか、寂びて良いか

「タイムレス」という言葉は甘美だ。だが、それを実装するにはもう一段具体化する必要がある。「古びないデザイン」はタイムレスだろう。また、「古さが味方になるデザイン」もまたタイムレスである。教養溢れた日本語で言えば、寂びがあるというやつだ。一方で、古さが価値に繋がらないデザインはタイムレスでは無いだろう。このあたり実例というメスを用いて当てはまり具合を検証してみたい。

築90年の土浦亀城邸

古びないデザインの代表例はモダニズム建築だと思う。フランク・ロイド・ライトの直弟子である土浦亀城の自邸なんかは築90年。ル・コルビュジエの「サヴォア邸」から遅れること僅かに4年という歴史があり、日本のモダニズム住宅はここから始まった、と言っても過言ではないが、デザインは全く古びていない。同様に、コンクリート打ちっぱなしを住宅に持ち込んだ嚆矢である安藤忠雄住吉の長屋も、住みやすさへの批判はあったとしても、デザインは古びていない。スクエアな形、白の塗り壁か、コンクリート打ちっぱなしの外観、外向きか内向きかは別として大きな開口部。なぜ人類はこの様な住宅建築を見ると新しいと感じるのかは定かでは無いが、古びない鉄板の表現形態である事は間違いない。Appleは丸さを出すデザインが好きだが、比較的スクエアなiPhone 5あたりの白のデザインが古びないのと似た様な感覚である。

右のiPhone5Sの方が、左の6より古びないと感じる。

一方の、古さが味方になる寂びが良いデザインとは何だろうか。歴史的建築はその代表例だが、戸建住宅としてピラミッドやら東大寺やらを建立する訳には行かないので、現代建築の範囲内で考えると、ヴィンテージマンションは定義上、古さが味方になる住宅である筈である。例えば、低層のホーマットシリーズなんかは古さが味方になっている、と言っても反論は少ないだろう。ただ、RC造の戸建は例を挙げるのが難しい。木造天国の日本においてただでさえ数が少なく、かつなかなか現存していないからである。思いつかなかったので調べてみたが、RC造の戸建はむしろ壊されやすいのかと思う位に現存していなかった。木造の前川國男自邸は移築されて保存されたが、RC造の白井晟一の自邸(虚白庵)は、RCは移築しにくいからか、保存される事なく築40年で壊されてしまった、みたいな話なのであろう。新江古田駅ほぼ直結、目白通り沿いの低層住宅という良すぎる立地も仇を為したのかもしれない。

虚白庵の跡地に建てられた現代建築

短期間で壊されずに売買される建物を作ろうと思っているだけで、移築されて保存されるような建物を作ろうという訳では無いので、上記の例は若干観点が異なるものの、とにかく古さが味方になるデザインのRC造で、実際に市場で売買されている戸建住宅は、まだ実例が少ない事が分かった。前述の前川國男吉村順三或いはヴォーリズ等の住宅作品が売買された事例は、Twitterで話題になったりとかで見た事があったが、これらは決まって木造か木造が主の混構造で板張りの外観である。日本人、やはり板張りだと良いと思う感性があって、壊しやすいけど壊さずに長く使うのか?誰の事だか分からないが、ビルにベタベタ板を貼るタイプの建築家の気持ちが少し分かった気がしたぞ。

が、自分の住宅に板をベタベタ張る意欲は湧かなかったので、マンションのホーマットシリーズと、ごく少数の古いRC造の住宅から村野藤吾の中山悦治邸を見て、古くなってないのでなく、古さを味方をつけている秘訣は何か考えてみた。これらの建築は、特に白塗りでもコンクリート打ちっぱなしでも無く、オーソドックスな要素を積み上げて上品に組み立てられている。

ホーマット・アンバサダー

まず要素として挙げられるのは素材である。砂岩、御影石といった、地球の欠片そのものの天然素材か、タイルの様な伝統的な素材が惜しみなく使われている。外壁の色は彩度を抑えた中間色が多い。このあたりは経年劣化しにくく、逆に年月が味になって経年優化し得る要素である。日本の戸建住宅の外壁を席巻する窯業系サイディングは劣化が避けられないし、はっきりとした色も経年によって色がはっきりしなくなると劣化と捉えられやすい。次いで形状としては、シルエットにおける水平ラインの安定感が目につく。「Wide & Low」と呼ぶらしいが、これが生理的な安心感を生む。そこに規則正しく特に水平に連続して配置された大きなガラス窓がリズムを刻む。また、外壁の要素の数は様々だが、多数派は1要素か2要素に止め、ガラス窓と対比させている。この様に、一つ一つは奇をてらわずオーソドックスだが、それを上手く積み上げて古さを味方につけられるデザインになっている様に見える。こう考えると、前述のパークマンション檜町公園も、最新の技術やデザイン処理を使いながらも、文法としてはこの王道を往くスタイルを踏襲していると思う。

バブル期ゴルフ場のクラブハウス

一方で、古さが価値に繋がらないデザインとは、そもそもシャビーか、豪華であっても時代の色気を出しすぎた建物であると思う。マンションで言えば、自邸が壊されてどらっぐ✚ぱぱすにされた白井晟一の代表作の一つである松涛美術館の隣には、シャンボール松濤という1969年築のマンションがある。曲線的で装飾が多いバルコニーを持つ優美な外観だ。この、現代においては余り見られない曲線的なバルコニーは、「アイコン」としては強力だし、愛好家もいるだろう。しかし、そこには秀和系と同時期な事が良く分かる「あの時代の空気」が明確に封じ込められてしまっている。タイムレスというよりは、時代の証言者としての佇まいだ。壊されてはいないが、癖のない直線で外観が出来ているホーマット、あるいはドムスと比べると古さが価値に繋がっていない感がある。

次いで戸建に目を転じてみよう。たまたま見ていた土地に南麻布の物件があった。売出し当初は、建物再利用可としてRC造・2003年築・250㎡オーバーの古家付きで売られていた。相場より高めだったので長くSUUMOに出ているが、見ている内に値段がじわじわ下がり、建物はあっさり取り壊され、現在は更地でかつ分筆可となってまだ売られている。内見はしていないので、実際に快適な住宅として使えたかは分からないが、RC造なら内装はリノベ可能と思うので、外観の問題が大きかったのではと推察する。外観の特徴は、階段室と思しき円塔が前面に来ている事で、それ以外は簡明な作りだ。この円塔は西洋の城郭建築から住宅のモチーフに転じたTurret(小塔)に由来すると思われ、バブル前後の洋風建築のテイストを引きずり、平成前期感が強い。90年代前半に建てられた法人ターゲットのゴルフ場の豪華なクラブハウスと共通するテイストである。これはこれで、その時代が好きな人には良いと思うのだが、わざわざ10億円以上を出してバブル期を味わいたい人は稀であり、むしろ猛者の領域だろう。ブランドが基本無い戸建住宅では、時代のアイコン性は買い手を狭くすると思う。

麻布山にTurretを構える家

これを現代に置き換えてみると、少し背筋が寒くなる。箱みたいな造形に、断熱性を高める為の小さい窓、 黒のガルバリウム鋼板に、木目の軒天や扉を合わせる「イケてる」モダン住宅。僕も嫌いではない。むしろ格好いいとすら思う。だが、あまりに流行しすぎている。昨今、街中あちこちで見かけるその黒い箱たちは、30年後「ああ、2020年代のあれね」と、かつてのバブル期建築のようなノスタルジーの対象になってしまうリスクを孕んでいる。流行に乗るということは、陳腐化という時限爆弾を抱えることでもある。

内装はいい。飽きれば変えればいいのだから。しかし、躯体と外観はそうはいかない。だからこそ、タイムレスを目指すなら、今の「映え」よりも、歴史の「風雪」に耐えうるオーソドックスさが重要だ。時間的打撃を受けた黒の箱群にいかほどの断熱性が残っていようとも、それは既に形骸である。あえて言おう!いや、言わない。好きならそれで良いと思うからである。

我々は遮りたくて、でも触れあいたい

外観の次に内部構造の話をしよう。内装はある程度リノベ出来てしまうので、構造的に動かせない部分に制約が無いかと、そこに付加価値があるかを考えてみた。制約で言えば、子供が小さいので滑り台が階段横にビルトインされているとか、かなり極端に施主の好みが出て、かつ不可逆に据え付けられたデザインで無ければ、仮にインテリアも壁紙も全部ディズニーの悪夢が如き家であっても売却する際のリノベで何とかなる気がする。あとは天井高が低すぎるとか、暗すぎるとかの根本的な欠点が無く、バルコニーへの「またぎ」や下がり壁や出っ張った梁の様なノイズになる構造が無ければ、制約は小さい。これらは、逆に転ずれば戸建ならではの付加価値になる要素である。天井高が高く、明るく、フラットバルコニー・フラット天井で梁が無く作れば、開放感があってノイズレスな空間が作れる。梁がデカいラーメン構造のマンションで全てを実現するのは困難だから、これは戸建ならではの付加価値になる。

またぎと下がり壁。右図はダクト奥の窓も天井までになってるが、それするならアイランドキッチンを止めてダクトを壁際に持ってきたい。一方、左図に加えて、梁が壁と天井の間に出っ張り、天井高が低いとかなりノイジーな空間になる。(出典:三井ホーム

もう一つ、付加価値として考えたのは中間領域である。住宅という存在は、根源的に矛盾を孕むものだ。住宅とは元来、雨風をしのぎ、夏の酷暑や冬の厳寒という過酷な自然環境を、人工の構造物によって遮断するためのシェルターである。外界の不快を遮断し、快適な内部空間を確保する。これが機能としての家の成り立ちである。現代においては、それが高気密高断熱住宅として進化し、あらゆるハウスメーカー工務店がそれを謳い、外界との遮断性を強化している。しかし、パラドキシカルなことに、我々が「良い家だ」と直感的に感じる空間は、得てしてその遮断された壁の向こう側、つまり外の自然を感じられる設計になっていることが多い。 完全に外界と遮断された箱は、それはもはや住宅というより「牢獄」か「洞窟」である。そこには、生物としての人間を癒やす「ゆらぎ」がない。

ここで重要になってくるのが、建築用語で言うところの「中間領域」という曖昧な空間だ。 深い軒下、濡れ縁、中庭、リビングとフラットに繋がるテラス。これらは、家の中であって外であり、外であって中である。この曖昧な空間こそが、シェルターとしての堅牢さと、自然への開放性という矛盾する二つの欲望を調停してくれる。また、横にある窓は隣家の建物や道路を風景として切り取るが、天窓や高窓は空の青さや月の白さを切り取り、天気を住民に伝え、落ちる光は刻々と表情を変え、建物の深奥部にまで外の気配を届ける。天窓や高窓は中間領域では無いが、室内にいながらにして室外を感じさせる媒介者である。

中間領域は、マンション建築では実現が難しい贅沢だ。バルコニーがそれに近いが、タワマンにはバルコニーは作りにくく、低層マンションのルーフバルコニーは容積に入れない為に屋根が無く中間領域とは言い難い。容積率とレンタブル比の数字の中に、この「無駄」な空間をねじ込む余地は少ないのだ。 資産価値や立地ではマンションに分があるが、この「光と風を飼い慣らす」中間領域の贅沢は、戸建住宅の魅力であり、積極的に選ぶ理由に成り得る。

中間領域は伝統的な日本家屋に元来存在したものだったが、モダニズム建築においても、サヴォア邸には巨大な軒下であるピロティがあり、室内から連続している屋上庭園もあるし、住吉の長屋の中心には中庭があり、外と中の二項対立では無い連続性がある。ヴィンテージマンションはマンションである以上なかなか難しいが、前川國男吉村順三の住宅はともに中間領域が豊富だ。つらつらと考えてきたが、内部構造として開放感があってノイズレスな空間で、中間領域が豊富で外の自然を感じられるデザインは、戸建住宅としてタイムレスな付加価値を持つと思う。これだけじゃない気はするが、これだけでも予算という名の現実の壁にぶつけたら、木っ端微塵になりそうである。

絶対領域から中間領域へ

家垢になる。

家を建てる事に決めたのである。

 18歳で東京に出てきて以来の長い賃貸生活が終わった後、デザイナーズ系ビルダーの建売戸建を買い、そして家族の変化により大手デベのマンションに移住したが、改めてマンションに住んでみると、賃貸マンション時代は感じなかった細部への違和感が強くなったのが主な理由だ。そして、戸建に戻るなら、建売でなく自分の住む事についての経験や価値観を、注文住宅というアウトプットにまとめて作ってみようと思った。

資産形成するならマンションでは

 これはネット上で争いが散発する戸建 VS マンションにおいて戸建がイイという類の話ではない。東京で、かつ30代40代の資産・家族形成の途中で家を買うなら、僕もマンションが良いと思っている。マンションの良さは流動性である。ある程度規格化された商品であるが故に、差異が少なく、かつ差異の可視化がある程度出来る為、ブランドによるプレミアムとか、間取りによるディスカウントとか、適切に要素が織り込まれてプライシングされ、売買が容易である。よって、家族が増えたり減ったり、仕事や子供の学校が変わったりという変化に対して、売却や購入という選択肢を取りやすい。戸建も売買は不可能では無いが、外観や間取り、工法や構造に個別性が高く、結果として売る為に時間が掛かったり、ディスカウントを余儀なくされやすい。流動性の低いスモールキャップに鯨の様なシェアを持つ様なものである。PEファンドマネジャーにとっては、真に身につまされる状況だ。また、流動性は需要を呼ぶ時がある。上場株を見ていると、流動性が買い需要を呼ぶ局面がある。東京のマンションはそんな局面にいる気がするし、戸建は流動性ディスカウントでマンションとの値段差が出ていると解する事も出来る。ただ、このある程度規格化された商品であり、差異が少ない事は、資産・家族形成が終わりつつある自分にとって、余り好ましい事では無かった。自分は、自分が良いと思える特異性が欲しくなっていた。

 これに対して僕の中のリトル漂流する身体が反論した。マンションもスケルトンからリノベすれば、結構な特異性が作れるのでは。が、広いスペースや高い天井高を求めると、投資金額が果てしなくなるのが致命傷だ。200㎡以上で天井高2.8mを求めると、港区渋谷区では新しいマンションだと20億円超え、今世紀初頭位までスコープに入れてやっと10億円前後になる。そこにリノベ費用が乗ってくるから、新築の戸建からすれば極めて高価である。高い分だけマンションには流動性があるから、売る時にプレミアムを回収できる可能性があるとはいえ、資金の固定化度合いは半端ない。また、マンションはサッシが変えにくいから、古いマンションだとこの20年くらいの断熱性におけるサッシの長足の進歩が生活に取り入れられない。今住んでいるマンションは築10年も経っていないが、それでもサッシの性能は最新の戸建よりかなり低く、冬に暖房を切ればサッシは冷え、加湿器を付ければ結露する。10億円にリノベ費用払って結露する住まいは欲しくない。加えて、家族移動とスノースポーツ用のクルマと、パーソナルなスポーツカーと2台持ちたいというだけで、外の駐車場が必要になるのも困る。いま2台持ちなのだが、どちらもそれなりに使う為、とても難儀だ。都会人はこうして家族移動とスノースポーツとスポーティなドライブの均衡点を一台にもとめてカイエンに乗るのだ。カイエンは好きだし、名前の由来である南米の秘境、フランス領ギアナの首都カイエンにも行って、緑色のエスカルゴを食べた事もあるが、今はその話をするタイミングでは無いだろう。

タイムレスなデザイン

 色々考えると、僕には雨が降ったら庭にエスカルゴが来てくれる戸建が合ってると思った。ただ、戸建の難点は流動性の低さであり、建てても20年30年したら売るなり相続して、介護施設なり墓場に入る事を考えると、これを多少でも緩和する作戦を練らねばならない。僕はSUUMOの、古家ありで売られている土地と、中古住宅として売られている物件を穴が開くほど見て、壊される住宅と壊されずに再利用される住宅の差を理解しようとし、おぼろげながら46という数字が浮かんできた。が、速やかにそれは忘れる事にした。当然ながら築年数は最大のファクターだが、次は構造に見える。木造は壊されやすいが、RC造は頑丈で、壊すにもお金がかかるからか、再利用されやすい。築30年位の戸建てだと、断熱性能は構造によらず低く、ヒートショック標準装備の住宅になるが、それでもRC造は内断熱が補強されるという訳でもないのに、比較的中古住宅として出回っている様に見える。最後にデザインのタイムレスさだ。コンクリート打ちっぱなしだったり、プレーンな邸宅感のあるデザインだったりする住宅は再利用されやすいが、施主の好みや時代感が濃厚に出ている住宅はRCでも土地として売られやすい様だ。例えば、妙に洋館風で明らかにバブル期の前後に建てた事が分かる建物は、高確率で土地のページに載っていた。デザインが古びていて買い手が付かないのであろう。消費者感覚でも、わざわざ億単位のお金を出して、バブル期のデザインに住みたいとは普通思わないものである。この様に思考をカタツムリの貝殻の様にグルグル回した後、RC造でタイムレスなデザインで戸建を建てることにした。それがどんなものかはこれからの検討課題だが、敢えてイメージしやすい様に具体例を挙げれば、中低層マンションでファサードの評価が高く、55億円の部屋で話題になった「パークマンション檜町公園」の様なデザインの戸建なら、きっと遠い将来にこの地域に住みたい準富裕層が買ってくれる事であろう。

パークマンション檜町公園

すき家のカレー

 すき家って美味しくないと思ってた。牛丼なら吉野家なか卯の方が好きだ。すき家の牛丼は、僕には味付けが濃すぎる。タクシーに乗った時に必ず流れる、b→dashの動画広告並みの濃さである。そもそも、b→dashとはどういう意味を込めた名前なのか。スーパーマリオBダッシュ並みのスピードで、タクシー乗ったら0.3秒で動画を消す僕には、良く分からないが、とにかく味付けが濃ければ濃いほど良いというものでは牛丼は無いと、僕は信じている。

 この前、会議にデスクワークが続いて、23時までご飯が食べられなかった時、僕はカレーを華麗に食べたかった。だが、夜遅くまでやっている本格的なカレー屋というのは実は余り多くない。夜遅い店には、「飲み要素」か「シメ要素」が必要なのだが、ナンを肴にチビチビと吟醸酒を飲むとか、大分他で出来上がった後にバナナの葉にタミルナードゥ・ミールスでシメる、みたいなダイバーシティに、まだ日本の飲食文化は至っていない。なお、酒に合わない外食カテゴリーは基本個食要素が強くなるが、考えてみると、みんなでワイワイとカレーを食べるという事は、確かにランチ以外には想像しにくいものである。

 そんな訳で、23時からカレーを食べられる所が、西麻布のオーセンティックなバー、ウォッカトニック以外には思いつかなかったし、西麻布でオーセンティックな気分にならない日でもあったので、僕は目の前にあったすき家に余り期待しないで入ったのだが、これが、なんと、カレー美味しかったのである。食べた牛あいがけカレーは、スパイスが効いた中辛のサラサラ系で、本格派だった。欧風カレーは辛口サラサラ系が好きな僕にはストライク。そして並盛690円。なんだかんだと1,200円位になってしまうCoCo壱のバリューとは何か、はたと考え込んでしまった。

 すき家が690円でこのレベルを全国1,900店でデリバリーしてくれるなら、それより高い専業カレー屋のバリューは何なのか。僕たちはカレーでなく、専業カレー屋という記号を食べているのか。ところで、記号性に乏しい日乃屋カレーは全面的に負けていないか。そんな思いでカレーを不味くしながら、僕は薄くて味のしないすき家のお茶を喉に流し込んだ。

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牛あいがけカレーだ。

うどんを考える。

 福岡に行ってきた。アズマエビスから見ると、福岡の麺類と言えば豚骨ラーメンなのだが、福岡人曰く地元民はラーメンよりうどんを良く食べるとの事。アズマエビスから見ると、うどんと言えば讃岐、あるいは大阪なのだが、なるほど知らぬ事も多いらしい。福岡のうどんの代表メニューはごぼ天うどん。人中有呂布、馬中有赤兔。愛媛にじゃこ天うどん有れば、福岡にごぼ天うどん有り。福岡のうどん情報を聞いて、因幡うどんという老舗に出かけた。福岡うどんは出汁が濃く、そしてコシが驚くほど無い。箸でつまめばブツブツと切れる、人呼んで腰抜けうどん。コシが強く、噛み応えのある讃岐うどんとは対極にある麺だ。食べているとうどんはつゆに溶けていくが、ごぼう天もフワフワとつゆに溶けていく。そして最後は麺と天かすが混然一体となったつゆをごくごくと飲む。讃岐のうどんは喉ごしで食べるものだが、福岡のうどんは飲むものである様だ。
 なお、讃岐うどんにファンドの匂いはしないが、福岡うどんについては、資さんうどんという北九州のソウルフードとも言えるうどんチェーンは、地元の地銀系ファンドが事業承継し、その後ファンド to ファンドで売却されているというファンドくさいうどんである。せっかくファンドくさいので、日本各地のうどんを麺とつゆの2軸で分類してみよう。

うどんつゆ
出汁ベース 醤油ベース
麺のコシ ある 讃岐うどん 水沢うどん
ない 福岡うどん 伊勢うどん

日本のうどん文化、MECEに分類できる位広がりがある。ただし、伊勢うどんだけは余り美味しくない。

あなたを便意から救うたった一つの方法

王都は指し示す

お腹の弱い半生だった。
子供の頃はそんな事感じた事なかったが、いつしかトイレが近くなった。だが、僕にも男の矜持がある。超人的な精神力により、事故に至ったのは一度もない。ほぼ事故というのが2回だけ。1度はジャカルタの都心で炭酸飲料が僕の腸を圧迫した結果、僕は路線バスのドアから射出されて、広い広い道路の中央分離帯の植え込みの陰に駆け込んだ。もう1度はブルキナファソからマリへの砂漠の旅路。運転手にフランス語でクソクソ叫んだ挙句に僕は、サハラ砂漠に滋養を供給することになった。
一方、日常を過ごす日本で事故の経験は無いが、余りにギリギリでのうっちゃりを続けた結果、腹痛は醒める事が分かっている悪夢の様になってきた。あと1分以内に決壊という所で、必ず開かずの扉が重々しく開くか、あるいはトイレそのものがビルの地下から、または通りすがりのカフェから、はたまたデパートのもう一つの上の階から出現し、僕はモンスターボールを投げる事が出来た。悪夢は醒めるのだ。最後にはモンスターボールを投げられる事が分かっているのに、なぜ僕はこんなにも脂汗を流して焦らないといけないのか。そんなメタなゲームの主人公の様な気分で、僕は都会を走り続けた。孤独なロードランナーだ。
だが、今はその悩みもかなり減った。もう、ロンリーロードランナーになる機会は余りない。なぜ減ったのか。僕は1年半前に王都バンコクと王の離宮ホアヒンを訪れ、そこで暴れる胃腸を治める秘法を学んだのだ。バンコクに行く前あたり、僕のお腹は史上最低だった。どれ位最低かと言うと、バンコクへの出発前に入念にトイレに行ったにも関わらず、乗ったトイレの無い京成スカイアクセス特急で我慢しきれずに途中下車する程度の最低さだった。僕はその頃、この最低さを改善させる為、ありとあらゆるお腹に良いとされる方法を試していた。あらゆる種類のヨーグルト、乳酸菌飲料、医師から処方された整腸剤、はたまた赤子用に買ったバイオガイアのロイテリ菌をひっそり飲んでみたり。炭酸飲料も冷たい飲み物も辛い食べ物も絶っていた。だが、僕のお腹は当時悪化するばかりだった。そして南国の食べ物、飲み物は細菌に満ちており、別の意味でお腹を下しやすい。僕は、南国に行く時、いつもマラリア予防でドキシサイクリンという抗生物質を使っていて、今回もこれを飲んだ。これを飲むと、お腹を下した時の薬をあらかじめ飲んでいる状態なので、経験的にマラリアに加えて細菌性の下痢も避けられる事を僕は知っていた。

コロンブスの勇気

なんとかバンコクに着いた後の、僕の懸念はバンコクからホアヒンまでの4時間のバスだった。このルートは何度か行っているが、ドライブインが途中に一つだけしかない。成田までの1時間が耐えられないのに、4時間を半分に割った2時間が耐えられるのか。僕は恐怖におびえながらバスに乗り込んだが、しかして、これが、特に何もなく耐えられたのだった。その後のホアヒンライフも快適だった。ホアヒンではトイレを遠く感じた。遥か遠く、黄金の新大陸にあるかの様だ。ホアヒンではトイレに至るのにコロンブスの勇気が必要だ。僕はサンタマリア号に揺られながら、何が自分の身体に起こったのだろう、何が日本と異なるのだろうと考えてみて、一つの仮説に行きついた。抗生物質である。
一般的にお腹については良いと悪いで捉えられている。

  • 一般論


きょうび、このフレームワークに則って、悪いお腹を直して良くする為に、善玉菌を増やしましょう、腸内フローラは全てを変えるんやーと、ありとあらゆる乳酸菌飲料や整腸剤が推奨されている。だが、このフレームワークは間違っていないだろうか。


善悪二元論でなく、中庸が良く、極端は両方悪い。フレームワークはこうじゃないのか。サンキュー、孔子。君が中庸という概念を編み出したので僕はこの思考に至っている。乳酸菌飲料とか整腸剤とかはお腹を良くするとは言われるものの、よく考えるとその作用は便秘を下痢方向に持っていくものだ。世の中には堅くて悩んでいる人の方が、柔らかくて悩んでいる人より圧倒的に多いのかもしれない。堅いものを柔らかく。そこんとこ、僕のお腹はずっと下痢状態だったので、下痢のものをより柔らかくしたら悪化するに決まっている。下痢の人には下痢止めが必要だ。抗生物質は細菌を増やさないか殺す作用があり、いずれにせよ細菌は減っていく。これは悪い細菌(赤痢菌とか)に対しても作用するが、腸内細菌に対しても作用し、一般に抗生物質は副作用として便秘がある。そう、僕の柔らかい方向に振れ切った腸内フローラに対し、抗生物質が腸内の善玉菌を殺しまくった事で、丁度良い方向に戻る作用があったのではないか。善玉菌も多くすれば悪をなす。僕は、そんな腸内フローラを抱えていたのかもしれない。そして、どうやらお腹を柔らかくする善玉菌がほっておくと勝手に増える腸内環境っぽい。住み処が恐ろしく善良なせいなのか、善玉菌は増えるばかり。それが、僕をロンリーロードランナーさせていたのさ。

コンキスタドール

という訳で、定期的に風邪の時に貰って余ったフロモックスやタリビットを飲んで、いたいけなインディオを制圧するコンキスタドールの様に、腸内フローラを虐殺して中庸を保っている。本来の使い方ではないので推奨はしない。そこんとこだけよろしく。題名は最近バズってたブログエントリを参考にさせて頂いた。