北京五輪を思う

 オリンピック、忙しくはあって、多分見れないだろうなと思ってはいたが、それなりに場面場面は目にするものである。スタート前の北島のイっちゃった目には正直びびって、高校野球の球児の様に試合の雰囲気に呑まれてしまい、「初めから負けている」目をしている選手が散見される中では、これ位イっちゃう程集中してないと勝てないのかなと思ったり、一矢も報いれないサッカー男子にはがっくしきたり。柔道で前まで三連覇していた野村は、今回金メダルを取った内柴に「敬意を払う価値があると思えるのは、頂点からどん底に落ちたときに、踏ん張る姿を見せられる選手。お前はどうか見てるぞ」と五輪前に声をかけたそうだが、これは話したのが野村ということもあって、極めて含蓄のある言葉でしたねぇ。スポーツに限らず、ハングリーだからファイトできる人はそれなりに居ても、頂点から墜ちたどん底でも変わらずファイトできる人は実世界でも余り居ない。それをして再び栄光を極めた野村だから言えた言葉なのだろう。
 一方で開会式ってのもなかなか面白くて、自分がこの国の国民だったらきっと気分が高揚したと思う。ここまで演出に国家色が強い開会式というのも記憶に無い。冬季はリレハメル位から、すっかり環境とローカリズムとか、左巻きなコンセプトになってしまっているし、夏季もロサンジェルスインパクトがあったが、あれも国家色というよりは、スターウォーズを実際に作っていた「時代の雰囲気」だった様に思う。その中で、自国の歴史にフォーカスを当てたのは特筆すべきことであろう。
 開会式の中で、特に目を引いたのは、漢民族の少女が「祖国を称える歌」を歌う中、少数民族の子供達が五星紅旗を運ぶシーンだった。沖縄サミットでは、大和民族が全く表に出ない、ローカル色に富む演出をした国の住民としては、歌った少女が少数民族出身であれば、違和感は小さかったに違いない(沖縄サミットにはなぜかイメージソングがあったが、その歌い手は沖縄出身の安室奈美恵だった)。
 或いは、五星紅旗共産党と四階級を示すものとされるので、特に漢民族の象徴では無い、という整理なのかもしれない。そうであったとしても、民族自決ヴェルサイユ条約以来の長く語られてきた概念であり、近年では少数民族と言えば、文化保護、自治拡大というのが西側諸国の共通した価値観である。自分としては、コンセプトである「和」の見せ方に、国と文明と、あと多分相対的な時代による価値観の違いを強く感じたシーンであった。しかも、今日になって、少数民族の服を着ていた子供は、殆どが漢民族の子供だったのが明らかになったとか。面子を重んずる国にしては、少々軽い対応の様に思われた。
 さて、話は脱線したが、五輪をとりまく中国経済は絶好調である。64年の東京、88年のソウル、08年の北京。64年の日本の一人あたりGDPは6,000$強、88年の韓国のそれは3,000$強、08年の中国は大体2,000$位であろうか。中国は人口が多いというのを差し引いても、徐々にバーが下がってきているのは、アジアの地位向上と無関係ではあるまい。こう考えると、いま一人あたりGDPが1,000$前後のインドがオリンピックをやるのは意外に早いかもしれない。また、どの五輪もその国にとっての高度成長期に行われているのも面白い。アジアにおいて五輪とは、将来を無条件に信じられる、いい時代に訪れるものらしい。その中で、東京が2016年に立候補しているが、これが実現すると、衰退を目の当たりにしている国がどういう五輪をするかという、アジアにとってまた最初の実験になるだろう。

Summer sky
[Sony Cybershot W300/105mm F5.5]

  • 会議の合間に。夏も急にクリアな空になる時がある。