植物性100%

もう桜が咲き始めている。
南麻布から広尾にかけて今日自転車で通過した所、すでに3分咲き〜5分咲きで、一部満開の木も有った。ちょっとフライング気味だ。来週は凄い人手と思われる。個人的には関西に桜を見に行く積もりだ。桜は西か北に限る。

写真もダイビングもEXCELも、なべてマクロ嫌いの僕では有るが、流石に桜見てマクロしないのも何かと思われるので、不本意ながらマクロで撮ってみた。今日のカメラはV570でなくて、歴戦のツワモノ、IXY DIGITAL 500である。トラック諸島だの奄美大島だの上海だの八丈島だのと連れ回されて、果ては海中35m位まで引きずり込まれているので、本体はキズだらけである。

Cherry cherry cherry
[Canon IXY DIGITAL 500 36-108mm F2.8-4.9]
とりあえず、満開の木から。IXYは、1/1.8インチCCDなので、V570の1/2.5インチCCDと比べると容易にボケてくれる。ただ絞り優先AE等のマニュアル設定は無いので、カメラ任せになってしまうが。

Red and White Sakura
[Canon IXY DIGITAL 500 36-108mm F2.8-4.9]
紅白の桜。白い方はなんというのだろう。こう比べると見ると染井吉野は、ずいぶん赤い事が判る。青空にくっきりと浮かぶ染井吉野もいいが、こういう花曇りの桜もなごめていい感じだ。蛇足だが、白い方は微妙に被写体ブレしてしまった。後ろのネットも気に入らない。でも、どう切り取ってもここはネットが入ってしまう場所だったので、仕方なし。

Ina Bauer tree
[Canon IXY DIGITAL 500 36-108mm F2.8-4.9]
有栖川記念公園の木。別にnothing specialだが、

という感じなので時事ネタとして撮ってみただけである。木も思わず真似するイナバウアー。しかし、映像を見るたびに、あの角度は凄いなと思う。あれだけ背中折れると色々便利そうだ。アシカの真似とか子供にしてやれそうだし。

Leaves
[Canon IXY DIGITAL 500 36-108mm F2.8-4.9]
葉っぱの歩道ガードと本物の葉っぱ。目を凝らせば地面から春が湧き出てきている。

A flower on the heavily pruned tree
[Canon IXY DIGITAL 500 36-108mm F2.8-4.9]
恵比寿のZestの辺りからガーデンプレイスに向かって上がる道沿いの木は深く剪定されて葉っぱ一つ無かったが、花は咲いた。死体が子を産むような、狂った光景だった。

V570と比べるとIXYはやっぱりシャープに撮れる。たまたまこっちを持ってきていたが、植物撮るにはIXYの方が向いているので、ラッキーだった。ただまぁ何というか、毒を吐かせて貰うと、最初の2枚については、綺麗に花が撮れても自分的にはSO WHAT!?という感じは否めない。他の人が撮っているのを非難する積もりは全く無いし、実際作例を見れば綺麗に撮れてるなとも思うのだが、ただそれを面白いとは思えないのである。
大きなカメラ屋さんだと、コンテストを定例でやっていて、その入賞作が店内に貼られていたりするが、半分は花の写真だったりする。この花の写真は、綺麗に撮れているから入賞しているのだろうが、僕的にはメッセージ性が余り無いし、誰かの人生を揺るがそうという撮り手の思いも感じられないので、うまくその写真とコミュニケーション出来ないのだ。
地面に満開の桜の枝が折られて落ちて踏まれている写真、とかなら理解の範疇に入ってくるのだが・・。僕がお花マクロの愉しみを理解するのは随分と先の話と思われる。

思うに、この様な「写真を上手に撮る鍛錬」というアクティビティにかくも多くの日本人がハマッているのは、習字の伝統が影響してはいないだろうか。書道についても、もともとはメッセージが重要で、それを美しく印象深く伝える為の型として書体が出来たと理解しているのだが、僕が習った初段までの習字には、何を題材とすべきかという思索は無く、とにかく型を学び、均整の取れた字を書く為にひたすら練習したと記憶する。写真についても同様と書くと、やや批判めいてしまうが、美しく正しく撮る事と受け手に何をどう伝えるか考える事のバランスがやや悪い感はある。
「笑っていいとも」の目指せ達筆王のコーナーで、うまい字よりは何かが伝わってくる字が高い評価を得ているが、このスタンスには極めて共感している。僕も、下手な技術を上げるのが先決だが、同時に他人或いは将来の自分への「伝達度」も上げたいものだ。

しかし、忙しくしていたらうっかり春になっている。というよりも、この半年の殺人的な状況の中で季節感ばかりか、遊び友達とのコンタクトも失っているのに気付く。春となってシーカヤックやらツーリングやらのシーズンだが、遊び友達のベースをもう一度作り直さないと、なかなかワイワイと気軽に遊びに行く感じが出てこない。
かつてうんと若い頃に、老練なソロモンブラザーズの社長から、「歳をとるというのは、選択肢の数を絞って、可能性を上げる作業の連続だ」と諭された事がある。その言葉は、最初からかなり僕に響いたが、年齢を重ねる毎に僕は更に深くその言葉の意味する所を理解しつつある。20代の10年間に僕の中の何が一番変わったかというと、もともと常にsafer sideに立ち、広く構えて物事に取り組む方だったのが、今では、極めてイシューをシャープに捉えて、最も可能性が高い選択肢を早めに見切って、それだけを究めるというタイプになった事だ。これは仕事だけでなくて、ゴルフでも麻雀でもあらゆる取捨選択のゲームのプレイも変わったのを感じる。
この半年間はそれをやり過ぎた感がある。何としてでも実現したいディールが有ったので、それに殆ど人生を捧げた。結果は出たが、その他は全て疎かになった。

プライベートにしても、新規ディール開拓にしても、一定のアクティビティベースを保たないと閾値を越えて、うまく回ったりしないものだから、意識的に時間を使わないとこのままずっと閾値を下回って、つまんない事になる様な直感がする。

今年の春は人間関係再構築・社会復帰を目標と致したい。