戦術のワールドカップ

「監督のW杯、戦術のW杯だった」。プラティニが今回のワールドカップをこう評した。
当たっていると思う。
ヒディンクスコラーリの例を出すまでも無く、決勝戦1つ見るだけでそれは明らかだ。守備をベースとしながらも、現実的かつダイナミックな采配を得意としたリッピと、ゲームの中での動的な采配にはそれ程優れないが、チーム作り・人選の方法論に長けたドメネクの戦いと捉えた方が、ジダンカンナバーロというゴールデンボールアワードとシルバーボールアワード対決と捉えるよりも判り易い。
特にドメネク監督のチーム作りは、ジーコと対比させると示唆に富む。ドメネクが基本とした、4-2-3-1は、3つの狙いを貫徹する狙いがあると僕は見ている。その3つは、

  1. ジダンによる、ジダンの為のジダンシフト
  2. 自由に動くジダンをカバーする為の守備重視のドイスボランチ
  3. 各国とも分厚い守備を引くセンターを避ける為のサイド攻撃

である。
①を達成するのに必要なのはトップ下というクラシックなポジションである。これを、4-2-3-1の3の真ん中というポジションでジダンを遇した訳だが、アルゼンチンがリケルメを遇した中盤がダイヤモンド型の4-4-2でも、ミラン型の4-3-1-2でも、それは可能である。なぜ、トレゼゲというタレントを擁しながら、アンリ・トレゼゲの2トップ、トップ下にジダンという配置をしなかったと問われれば、自由に動き、かつプレスをしない為に守備に穴が開けがちなジダンをフォローする為に守備的MFを2枚欲したからであろう。この必要性により4-4-2という選択肢は無くなる。
また、守備的MFが高い位置でボールを取った後に、ボールを前に運ぶには、ジダンに出すか、ロングボールをFWに放るか、サイドに出すかしか無い。ジダンに厳しいマンマークが付く事が容易に予想される状況下では、後ろ2つを選択する状況も多いだろうが、ピルロの様に目の覚めるようなロングフィードが出せないビエラマケレレの守備的MFを前提とすると、サイドに先ず出すというのを選択するのは合理的である。如何にアンリ・トレゼゲの個人技が優れていても、現代の高くて強いDFが揃うセンターを2人でこじ開ける事を期待するよりは、守備的MFの前にサイドプレイヤーがいて、そこに預けられる布陣の方が、センターのDFを分散させる観点でも、攻撃の確度は上がるだろう。こう考えると、4-3-1-2ではサイドプレイヤーが守備的MFの横に居るため、速い攻撃にならない。また、3ボランチの内2人が守備的MFという事になると、真ん中かどちらかのサイドが弱くなり、バランスが余り宜しくない。
こういった理由から、4-2-3-1が選択されたのだと僕は思っている。アンリは万能なFWでは有るが、決して1トップがベストのプレイヤーでは無い。しかし、上記の戦術上の要請から彼が1トップを張って、9番の役割をこなし、本来9番であるトレゼゲが、アンリとの比較考量においてベンチを温め、クリエイティブなプレイが出来るピレスがジダンの比較において代表にも選ばれないという状況が発生している。
この仮説の確からしさを示すのが、フランスのグループリーグの最終戦であるトーゴとの戦いである。この試合はジダンが累積警告2枚で出場していないが、この時のフォーメーションは、4-2-2-2なのである。ジダンが不在の為に、ジダンシフトをひく必要はなくなり、アンリ・トレゼゲの2トップにマルーダリベリーがサイドに開いた攻撃的MFで出場している。他の試合とこのトーゴ戦を比較すれば、ドメネク監督は、守備的MFは所与として、ジダンが居ればジダンを最大限生かすシフトをして、ジダンが居なければ、ピレスをジダンの代わりに入れてシステムを変えないという選択肢よりは、トレゼゲを前線に加えた方が効率的だと考えている事が判る。また、攻撃的MFがサイドに2人開いている形は不変な事から、サイドからの攻撃は常にフランスのオプションだとしているのだろう。
これはジダンという稀代のプレイヤーを中心に、他の選手のスキルレベルも見ながら合理的にどう攻めるかを考え抜いた戦術である。監督の戦術の下では、トレゼゲやピレスの様な選手でも、ピッチに立てないのが欧州サッカーの冷厳な考え方である。
これを見た後だと、どうにも上手い方から11人選んだ様な感がぬぐえないジーコの代表は考え方が甘い気がしてくる。そもそも誰がパスを出し、誰が得点をするのか。中央・サイドそれぞれ誰が攻めるのか。中村俊輔フリーキックは一つのオプションにしろ、こういった基本の所が見えてこなかった。これが、皆がジーコジャパンにずっと抱いていたもやもや感の源泉の様にも思うし、これ程決まり事が無く自由にやろうというチームはブラジルとガーナ位だったという事実、日本のスキルレベルはブラジルの個人技、ガーナの身体能力とはかけ離れていたという事実からも、無謀な理想論だったと思うのである。
僕は、職業柄戦略とか組織論に縁が深く、スーパースターが居ればいいものの居なくても回る組織・リーダーシップは何かというのを常々考えているので、どうしても組織や戦術に拠った見方になってしまう。ただ、例に挙げたフランスにせよ、衆目が一致するだろうイタリアにせよ、決勝戦に残ったチームが超リアリスティックな現実把握から堅固な戦術・人選を組み立てているのを見ると、ついつい仕事に戻って、スーパースターを何人集めたから勝ち、というのは経営じゃないよなーと思ってしまう次第である。