有名人知事は官僚天国になる

 アウトサイダーが組織に入ることには一定の効用があるものだが、それにしてもアウトサイダー中のアウトサイダーが知事になったものである。もちろん先の宮崎県知事選のことである。
 行政というのは面白い組織である。総じて組織の文化を言えば、「官僚的」という言葉がある位で、公共サービスという仕事の性格上、変化よりも継続性を重視し、縦割りの人員構成から必然的に組織の論理が重視されるという、日本でも最もお堅い部類に入る。しかし、そのトップマネジメントはと言えば、定期的に外部からアウトサイダーが入って来るのだ。民間企業であれば、お堅い企業文化の企業であれば、トップマネジメントは内部昇格が基本であり、逆にフレキシブルな企業であれば、トップはヘッドハンター等を通じて外から来る事も有り得るのだが、行政は極めてお堅い組織文化なのに、トップは外から必ず来るのである。
 バイアウトファンドの仕事の欠かせないパーツにマネジメントサーチがある。トップの場合もあるし、金庫番という観点でCFOという場合もあるし、ラインに入らないスタッフとして経営企画担当役員という場合も有るが、大抵の案件で行う活動だ。老舗のファンドであれば、相当の数の役員を投資先に送り込んでいるものだが、自社のケースを省みても、他社のメンバーと話しても、共通にマネジメントサーチの成功確率はそれ程高く無いのが現状だ。
 失敗するのは、まず短い面接やレジュメではその人の能力が見極められないという「実は能力が無かった」という理由か、能力は有ったけれども「その組織にはフィットしなかった」という理由か、そのどちらかである。特に後者は、十分なトラックレコードを持った人材を絶対の自信で送り込んでも、発生しうる。いかに優秀で過去実績を上げた人であっても、鬼軍曹的なリーダーを羊の群れの様な組織に送り込んだら、組織は右往左往するだけだし、対話型のリーダーを実績主義が浸透した攻撃的な営業ドリブンの会社に送ってもワークしない。羊の群れにはそれを導く羊飼いが、実績主義者達の群れには最高の実績達成者が必要とされるのである。また、文化面以外にケイパビリティという観点もある。大企業だと有能な補佐官が沢山居るため、自らのアイディアがうまく実地に移されて実績を上げてきたリーダーが、中堅企業やベンチャーに行くと、自らプランニングだけではなくて、実行まで行わないと物事が動かないという現実に適応できず、アイディア倒れで殆ど施策がワークしなかったりする。
 また、個人技では優秀な人が、必ずしも優秀な指揮官では無いというのはスポーツの世界と経営の世界で共通して言える事である。極めて優秀な若手をマネジメントに引き上げる時は、それを常に悩む。例えばマーケティング部門の立て直しが必要な企業があったとして、そこにシャープで、スパイキーなアイディアも併せ持つ他社の優秀なマーケターを、マーケティングのヘッドとして引き抜いてくるのが、果たして組織として力を最大化する為の正解なのかどうか、典型的にはそういった課題だ。もちろん若くて優秀なヘッドの誕生により、これまで大きな顔していた能力の無いシニアの居場所が無くなり、一方で刺激を受けた若手が台頭して大成功となるかもしれない。逆に、過去の成功体験を押し付ける外からのリーダーに組織は総スカンで、崩壊する可能性もある。この場合は、こういった人物はまずスタッフとして働いて貰い、マーケティングスキルは落ちるものの、外部者と内部者の融合をうまく図れる様な対話型の人物をヘッドに据えて、先ずは優秀な人間が自然に組織に溶け込む様な陣容を組むのが正解の可能性が高い。
 政治の世界に振り返ると、かつて田中真紀子外務大臣になった時が有ったが、彼女が大臣だった時間は、日本の外交は崩壊状態だった。田中真紀子は、個人としては人気があり、小泉純一郎への風の可能性を読み取って応援に回ったという高い政局、世論への感度もあり、ポピュリストとしては才能が有ったと思うのだが、残念ながら組織を動かす才能はゼロに等しかったという事だろう。組織を動かせない人をリーダーに据えた場合、殆どの場合2つのパターンの中に収まる。1つは田中真紀子の様に我を通して組織を崩壊させてしまうこと、2つめは組織に呑まれて何も出来なくなることである。
 ここまでつらつらとリーダーが活躍できる条件について書いてきたが、まとめれば、担当者としての能力と組織のリーダーとしての能力は全く違うものだし、たとえリーダーとしての能力があっても、リーダーシップのあり方と組織の性格のフィットが悪いとワークしないという事である。この様にリーダーを選ぶというのは極めて難易度が高い複雑な仕事の為、バイアウトファンドの仕事の中で、マネジメントサーチには相応の時間を使って、考え抜くことになる。別に自分の仕事が選挙人の選択眼より良い筈だと自画自賛する訳では無いが、能力があるか、フィットするか、というのを慎重に考えて選んでもよく失敗するのに、地方公共団体のボスというのは選挙でスッパリ選ばれて着任するのだから、うまく行かないケースが多々出てくるのもある種必然とも思える。この意味で、元官僚の知事候補というのは一定の合理性がある。官僚出身者が官僚組織のトップに着くという事だから、フィットの問題を余り考えなくて良く、後は要は能力があるかどうかだから、両方の問題がある普通の候補者と比べると成功確率は確実に高い筈だからだ。
 上記の様に整理をすると、今回の宮崎県知事は、正直組織のリーダーとしても、政策のスキルの点でも、これまでの世界と官僚組織とのフィットでも、極めてリスクが高い選択肢を宮崎県民の方は取った様に思われる。それだけ既存の候補者に魅力が無かったということだし、アウトサイダーを欲していたという事だろうが、アウトサイダーでも芸能界での経験が政治に生きるとは少々考えにくい。組織を知らないが故に組織を変えられるという期待が有る様だが、どちらかというと組織を知るが故に組織をコントロール出来るという方が真理だろう。過去の東京と大阪における有名人知事の時代は、逆に官僚主導色が強まった感もあり、余り未来を予想しても仕方が無いが、組織に結局呑まれてしまう、というのが最も実現しそうなシナリオの様に思われる。
 ただし、必ず失敗するだろうとも言えないのが、こういうパブリシティのうまそうなリーダーをうまく使いこなせる部下が居る場合は、極めてうまくワークする可能性がある事である。組織に呑まれたリーダー程コントロールしやすいリーダーは居ない。野心的で優秀な事務方のトップがもし宮崎県に居れば、逆説的に最も良いリーダーと成り得るだろう。