長銀判決と最高裁の良心

 いささか旧聞に属するが、7月19日に旧長銀の大野木元頭取に対する刑事責任について、最高裁判決があり、地裁・高裁の判断を覆して、無罪となった。元頭取は、長銀を破綻に追いやった特別背任罪に問われていたかと思いきやさにあらず、罪は

  • 関連ノンバンクの不良債権を処理しないことで、損失を約3,000億円小さく見積もった有価証券不実記載
  • 実質的には配当可能利益が無いのに72億円を配当した所謂タコ配当

の二点で旧長銀事件の本筋とはかけ離れている。はっきり言ってしまえば、別件逮捕である。
 この裁判の争点は一貫しており、大蔵省が出した銀行通達に、関連ノンバンクへの融資は厳正に査定すべきと書かれていたが、長銀はそれを守らずに不良債権処理をせず、不実記載やタコ配当をしたかである。最高裁では、この通達が大枠の方針であって明確でなく、かつ当時の大手18行の内、4行が長銀と同様の会計処理で損失を先送りしていた事から、刑事責任に問う程では無いと、地裁・高裁とは異なる判断を下し、無罪とした。また、民事でも整理回収機構からの損害賠償請求がほぼ同時に棄却され、刑事・民事共に責任無しとなった。
 事件を時系列で見ると、

となる。更に時代的背景を付け加えるならば、96年に住専への公的資金投入に際し、預保に旧経営者の責任追及が新たな業務として加えられた。裁判所も判事を預保に出向させて、司法と金融行政との距離が縮まっている。そして98年の金融再生法には「経営責任の明確化」が盛り込まれた。当時の公的資金投入に厳しかった世論に対して、政治が差し出した代償が経営者個人の責任追及と言っても良い。この金融危機の時代にトップが逮捕された金融機関は30を超えている。また、こと長銀破綻に関しては、98年7月の参院選橋龍が惨敗して退陣し、参院与野党逆転下、政治は世論に阿らざるを得ない時代の処理であった事も心に止めておきたい。
 幾つかの新聞も触れていたが、この事件は、数兆円にのぼる公的資金投入の代償としての国策捜査の象徴的事案だったのは間違いない。当時の検事総長は、「破綻金融機関の経営陣の刑事責任を追及せよという声が上がっていることは承知している」とまで発言しているのだ。
 バブルという環境要因があったとはいえ、不良債権を積み上げた経営者の罪は重い。また、神ならずとは言え当時の金融行政にも不作為の罪はあろう。しかし、この元頭取は不良債権を積み上げた経営者では無く、破綻の原因を作ったのは前の経営者である。しかし、その経営者を訴追するには時効の壁がある。また、特別背任罪には図利加害目的が必要であり、自らの利益を図るか、銀行への損害を企図しない限りには罪には問われない。検察は、結局この時候の壁に阻まれたことと、図利加害目的を立証できなかったことで、時効が来ていない最後の経営者を、本筋とは異なる別件で「国策起訴」をしたのだろう。
 世論は、金融危機当時から変わらず金融嫌いであって、その世論に影響された様な判決が、この所スティールや村上ファンドの事案で出ている情勢である。その中で、世論に阿らず、法の統治の存在を示した判決が出たことに、僕は最高裁の良心を見た思いである。また、僕は長銀の出身では無いが、国の意志に大きく左右された元頭取の人生には同情を禁じ得ない。ただ、彼がスケープゴートとなることで、その後の都銀への公的資金投入への道筋が出来たのも事実である。一人の初老の男性の人生と、今日の銀行財務の健全化が天秤に掛けられたのだ。現代の民主主義国家においても、依然として国家権力と個人の人権は鋭く対立している。


[Softbank mobile 920P /F2.8]