Day 6 /遠く千円札を思う。

 起きると、ステラに見つからない内にさっさと宿を出た。今日もドキュメントワークの日である。ガーナ人と結婚して当地に在住するという日本人の係員の方から増補されたパスポートを受け取った。プラス40ページ。結構な分量である。一気にパスポートが分厚くなった。気を付けて、良い旅行をとのはなむけの言葉も頂く。業務時間中に平気で友人が現れるとお茶しに消えてしまうパキスタン人のような風習が日本人にも有れば、お茶の一つもしてガーナの話を聞きたいところだが、日本人全体にそんな風習が満ちていれば、今頃まだ日本は万人の万人に対する闘争を続けているであろう。
 日本大使館を出ると、そそくさとコートジボアール大使館に向かう。昨日の左巻きNGO系女性係員が健在である。こちらも気合いを込めて、いかにこのパスポートがオフィシャルに増補された清く正しいものかを主張して、何とか受領してもらった。Investmentは、professionでは無いとか細かいつっこみは入ったが、それは良しとすることにする。しかし、さらなる難題はビザ代をコートジボアールの通貨であるCFAフランで払えという要求である。旅行人ノートにはガーナの通貨Cedi払い可と書いて有る。Lonely Planetでは明らかではないが、ドル払いすらOKそうな表現である。ルールが変わったのだろうか。
 いかに隣国とはいえ、こういうソフトカレンシーを両替するのは骨が折れる。地理に不案内な旅人に対して、何とか銀行でビザ代を払った上で、その銀行発行の為替手形をもってこいとか無理難題を吹っかけてくる旧ソ連の某国よりましかと気を取り直して、銀行・両替屋をハシゴした。結局、銀行はバークレーズ、スタチャン(Standard and Charterd。)とダメで、両替屋も3軒目でようやく在庫が有るところを発見した。多めに300,000CFAフランをゲットして、意気揚々とコートジボアール大使館に戻ると、ようやく手続きコンプリートである。明日の14時に再度出頭せよというスリップがぴっと発行された。精一杯の皮肉を込めて、Merci、と言うと、左巻きNGO系は呵々と大笑した。厳しいがそんなに悪い奴では無いのかも知れない。唯一のグッドニュースはインターバルが48時間でなく、24時間と少しだった事である。
 さて、ようやく悪戦苦闘のドキュメントワークに目処を付けると、腹が減ってきた。これまでローカルフードはある程度食べ続けたので、今日のランチはパスタにした。僕は中華料理と同様の浸透力を持って、世界各地に広がるイタリア料理を食べるのが旅の一つの習慣である。それは、極めてマゾヒスティックな意味であり、世界でアルデンテという概念を理解できているのは、イタリア人と日本人だけであるという僕の仮説を検証するためである。これまで、信じられないほど不味いパスタを各地で食べてきた。そのもっともエクストリームな経験は、大概においてスラブ人によってもたらされているが、アフリカにおいても、キリマンジャロの麓のモシという町のホテルで食べたナポリタンは、給食で食べさせられたソフト麺が天の滋味(マナ)であるかの様に思える様な代物だったことがある。さて、ガーナでは、この世界もっとも不味いパスタ探しの旅、どうなるであろうか。
 ぷらぷらとOSUの町を歩き、目についたイタリアンに余り考えずに入ってみたら、店主らしきレバノン人と目があった。レバノン人というのは微妙なサインである。イタリア人では無いから、麺に期待は出来ないが、ソースはそこそこの可能性がある。果たして、麺はソフト麺だったが、食えない味ではない。昭和40年代の名古屋の喫茶店ナポリタンを頼んだらきっとこんな味だっただろうとと思わせる味だ。意味不明の表現だが、旨いという訳ではないのに、なぜかペロリと一皿食べれるという事である。
 ランチ後の予定は何も決めていなかったので、しばしレストランで考えた後、野口英世の足跡を辿ることにした。日本人なら、この偉大な開拓者の魂を持った科学者の事をもっと知っておくべきだろう。野口英世が使っていた研究室というのは現存しており、それは、今はKORLE BU TEACHING HOSPITALという大学付属病院の一角にある。シェアードタクシーがたまたま店の前で捕まったので、それに乗る。同乗していたのは、Adeyという名のスーツを着たビジネスマンである。僕が、スペルからうまく発音に起こせず、行き先はコールレーブーホスピタルだと言ったら、カリ ブッだ。男ならもっと闘うように発音しろとご丁寧に訂正してくれた。初めてで判るかっつーの。しばらく話した後、僕が日本人だと明かすと、"I respect Japan! the world's hardest worker!!"とか叫んで握手を求めてきた。彼に限らずガーナの人はみな親日的である。日本人だと判った瞬間の笑顔、好意、尊敬の念に僕は甘えながら旅行してきた。先人達が築いた日本の良いイメージに助けられっぱなしである。日本人はもはやworld's hardest workerでは無いし、汗水垂らして働くというのが美徳して消えつつある。豊かになるというのはそういう事かも知れない。人と海しか資源のない国が、敗戦後の灰燼からいかに国を造るかという点で、日本は世界に範を示したが、豊かになった後どう振る舞うかという点では、まだまだ欧州の国に一日の長がある。学ぶべき事は多い。
 Adeyは、日本に興味があり、日本とのビジネスの可能性を知りたいから、いつでも電話していい、と携帯の番号を渡して、途中バークレーズ銀行の前で降りていった。そこから病院までは直ぐである。事前情報によると、日本庭園があり、その正面に野口英世の研究室があるという。なので、日本庭園の場所を聞いて回ったが、余り知られていない。4人目位でようやくもっと奥の方だと言う人が現れて、そちらに向かった。歩いていくと、僕を日本人だと認めた人々が、口々に、"Hey, you come here for NOGUCHI? This way!!"とか言ってくれる。どうも日本庭園とか言ったのが失敗で、素直にNOGUCHI study roomはどこだと聞けば良かったようだ。この失敗を極めて明瞭に認識したのが、当の日本庭園の前である。巨大なサボテンがそびえ立つこれを日本庭園だと認識できるのはごく少数の人に違いない。碑銘とか、石の置物とか、玉砂利とかに辛うじて日本の香りがあるが、これは僕が日本人だからそう認識できるのであって、総じてこれを日本庭園というと、語弊があるだろう。
 続いて野口研究室に向かった。そこは大学のありがちな大部屋に付属した一室であり、僕がそこに行くと、ちょうど集中できるスペースなのか、女学生が一人そこで勉強していた。邪魔してすまんと断りを入れる。隔離されて展示されるよりも、学生がそこで現実に勉強していた方がきっと野口英世も喜ぶような気がする。展示自体は立派なもので、現千円札から野口英世の訃報を一面トップで載せるNY Timesの記事、使っていた顕微鏡など、非常に手触り感のある、小さいながら感性に響くものだった。もっとも僕が多くの時間を費やしたのは、野口英世の母である野口シカからの直筆の手紙の展示である。かすかに幼い頃に読んだ伝記で記憶がある。立派な母として書かれていた筈だ。その手紙の字は、全く上手とは言えないが、魂に迫る渾身の一文字一文字であった。
 あいだみつおの作品は、書かれている内容は当たり前の事だが、特徴のある字体でそれを数倍にして伝えるものである。野口シカの手紙は、書いている内容も、遠く異国に赴いて名を為した息子を思う感動的な内容だが、字が本当に素晴らしかった。文字、行間、すべてに賞賛と寂しさとそれを忍ぶ心が満ち溢れている。これまで様々な日本語を見てきた。まるでピクニックに行く様な心持ちだ、と一言、特攻前夜の学徒が家族に送った手紙の、か細い鬼気迫る字を呉の海軍記念館で見たことがある。野口シカの手紙は、そんな僕の心に衝撃的な記憶を残した幾つかの日本語の一つとなった。
 その後、更に時間が余ったので、椰子の木陰に腰掛けて、海風に吹かれながら何をしようかなと考えた。別にこのまま木陰にいても良かったのだが、アクラ滞在も明日までだし、ちょっと外からアクラを見てみてもいいかもしれない。そう考えて、アクラの北背にそびえる丘陵地帯の街、アブリに行ってみることにした。今日はクリアに晴れているから、アブリからアクラ・メトロポリタンを一望できる可能性もある。
 アブリまでは1時間強のドライブである。カリブッホスピタルからの市内タクシー移動が25,000Cedis(300円位)なのに、アブリまでの1時間がトロトロという乗り合いバスに乗るとなんと9,000Cedis(120円位)である。いまいち釈然としない。トロトロは乗るとすぐにぐいぐいと高度を上げる。すぐに家がまばらになり、やがて草原が広がりだす。尾根筋に出る度にアクラが展望できるが、なかなかの風景だ。アブリについて暫く下に広がるアクラを眺めていたが、距離感・高度ともに神戸を六甲から眺める感じに近いかも知れない。
 アブリにはイギリス人が作った植物園がある。旅先で動物園に行くのも植物園に行くのも好きだが、アフリカなら植物園、南米なら動物園がお勧めである。南米で動物園に行くと見たことのない種で埋め尽くされているし、アフリカはやはり木や花の造りが一つ一つ大きく、見応えがある。ここの植物園も入り口から巨大なパームツリーが出迎えてくれた。ここの見所は、150年以上の樹齢と見られる巨大なカポックの木である。温帯で150年だと大したことがない様に思われるが、太陽光と水に恵まれた熱帯の木の生長は驚くほど早いので、一概には比べられない。100年前に、イギリス人がこの植物園を作ったときには既に十分大きかったらしく、この木だけが自生のものとして残ったとか。
 僕は巨木マニアという程ではないが、信頼するツーリングマップルに県や市の天然記念物級の巨木の表示があると、寄り道してでも見に行く程度には好きである。屋久島の縄文杉も往復8時間かけてひぃひぃ言いながら見に行った。関東では群馬県がなかなかシブい巨木群を擁している。このカポックの木は、並の巨木では驚かなくなっているスレた感性の僕にも感嘆を与える大きさで、かつびっしりと幹が見えないほどにツタ性の植物に覆われている様は、あたかも森の老人の化身の様に思われた。大変感動したのは間違いないのだが、それを伝えるために「リアル・モリゾーを見た」という位しか言葉が浮かばない貧困な自分のボキャブラリーは悲しい。
 なかなか広大な植物園を見て回り、熱帯雨林に沈む壮大な夕日を丘の上から眺めると、足早に夜の帳が辺りに訪れる。帰りの足が無くなると大変なので、植物園を出ようとすると、2人組の若い女性に呼び止められた。一人はエメリアという名前で、もう一人はなんか難しい発音で忘れてしまった。お決まりの自己紹介を一通りした後、写真嫌いのガーナ人にしては珍しく写真を撮るのをOKしてくれたので、パチパチと写真を撮らせて貰った。エメリアは19歳、大学でITを勉強している。もう一人は17歳で経済を勉強しているとのこと。エメリアの方がかなり整った顔立ちだったが、もう一人の17歳の方が賢さが見て取れる立居振舞だった。ガーナ人はすぐ友達になろうと言い出すが、この子たちも同様に友達になりましょうと言って、e-mailと携帯の電話を交換した。
「学校はアクラだから明日アクラで会えないの?」とエメリア。会うくらいなら喜んでOKして、ガーナの女子大生ライフを聞いてみたいが、残念ながら明日はアクラを発つ日である。その様に伝えると、
「What can we do any more?」
「Can you love black women?」
といきなりステージが3つ位上がって、もうすぐ最終解脱である。3日連続の逆ナンとは・・。エメリアは19歳だが、もう一人は17歳である。うっかりすると東京では淫行条例に引っかかる年頃だ。しかし、この豊かとはいえない国で大学まで行かせて貰って、個人の携帯まで持っているエリートが人民の範たらなくてどうする、などと説教したりはしないが、文化の違いは感じる。お茶くらいならしていいけど、そちら方面は如何に若くて美人でも遠慮モードなので、最初の疑問文には写真を貰ったYahoo.comのアドレスに送るからそれでいいだろと強引にまとめてトロトロ・ステーションの方に向かいだした。
 3日続くと流石にちょっと偶然ではなくて、日本人がとてもモテる国だという事なのだろう。コナン・ザ・グレートか何かのSwords&Sorceryの物語で、筋骨隆々の主人公が蛮族の地で捕らえられ、車に張り付けられて市中を引き回されるシーンがあった。そのシーンでは、主人公のゴツい体を見た街中の女が「私に精をおくれ」なんて口々に叫んでおり、そんな淫蕩な所あるわけ無いだろと思っていたが、プチその主人公の気分である。当方は筋骨と言っても、骨はあるが筋は無いのだが。僕は、かねてより日本人女性と比べて日本人男性の競争力が世界的にアンダーパフォームしている事に深く憂慮しているものである。しかし、サッカーと同じで余りアジアレベルで無敵を誇っても自慢にならない様な気がする。特に上海あたりの小姐と勝負している輩は、六本木の高級キャバでJリーグ勝ち抜いてからにするべきである。そういう意味で、世界に活躍の場を求めれば、これまでごく個人的な経験として、ルーマニアとブラジルは総じてグッドパフォーマンスだった気がするが、ガーナもその一翼に加わりそうである。
 さて、うら若き女性2名を振り切ると、マディナという街まではシェアードタクシーで、15,000Cedis(180円位)、マディナからアクラはトロトロで6,000Cedisであった。アクラについて腹が減ったので、前にも食べたWhite-Bellというレストランで、Bankuというローカルフードを食べたが、これはLonely Planetの説明をきちんと読んでおくべきであった。"fermented maize meal"とある。とうもろこしを発酵させた食べものである。まずくは無いんだが、こういう発酵食品とか豆腐のような味の薄い食品は土着で食べ慣れてないと厳しい。日本では、納豆、なれずしはおろか、ゆする、しょっつる、何でも来いなのだが、さすがにガーナの発酵食品は途中でギブアップだ。そんなこんなで宿に着いたのは0時近く。着いたら宿の主人が、ステラがついさっきまで踊りに行こうとあなたを待ってたよと、ニヤニヤしながら鍵を渡してきた。知るか、と日本語で答えて、寝た。