東電を辞める人たち

 Chikirinさんの"その船を、いつ降りる?"というエントリを見て、或るクラスタの境目を感じたのでそれをしたためる。Chikirinさんのポイントはこうだ。

  • 東電の退職者数は原発事故前後で3倍にしか増えておらず、もともと絶対数は少ないだろうから、今も余り多くない
  • 長銀という先行事例では、すぐ辞めた人は職が見つかりやすかったが、本当にやばくなってからは厳しかった
  • いつ会社という船を降りるかは非常に重要

○出典:Chikirinの日記

タイミングはやっぱり重要

 主に金銭的報酬や職の安定度を総合した待遇や、仕事や将来のコントローラビリティという物差しではその通りだろう。一つだけ付け加えるなら、長銀のケースにおいては、早く辞めた人が、たまたま外資系金融機関と、各種アドバイザリーなどのプロフェッショナルファーム業態とが興隆した時期と重なったという幸運があった。早く辞めたのが良かったのでは無く、辞めた時期がたまたま良かったということである。そのタイミングの要素と、転職できた人は、そもそも市場価値があり、かつ状況を早く見切って決断できる能力を持った人だったという能力バイアスの要素があるから、長銀のケースにおいては、早く辞めたことがサクセスの決定要因では無いと思う。但し、大抵波が何回かに分かれてくる投資銀行のリストラという別の例を見ていると、こちらは第一波で辞めた人の方が、その後の就職が容易な傾向にあるのは間違いないと感じる。だから、辞めるならタイミングは重要というポイント自体は指摘の通りである。

働く上での志的要素

 ただ、人が辞めるのは待遇やコントローラビリティだけが理由では無い。僕も長銀の様な特殊銀行に最初就職していた。今となってはこういう特殊銀行の存在を知らない人も多いので、一応解説しておくと、特殊銀行は普通銀行たる現在のメガバンクでは無い銀行で、大抵の特殊銀行、それは長信銀であっても、信託銀行であっても、政府系であっても、産業向け長期融資に重点が置かれていた銀行と考えれば大筋間違いはない。そして、産業向け長期融資なるものが、普通銀行でも十分対応でき、そして銀行の収益と流動性の基盤における、安価で零細な預金を持っていることの比重が高まった段で、それぞれ存在意義を失っていった。そんな存在意義を失いつつある時代に僕はその特殊銀行の一つで働いていたのだが、同僚と話し、また採用面接をしていた時、ふと気付いた事がある。官庁と併願する人はどこの大企業でも多いが、民間同士では他の銀行や外資投資銀行と競合する一方で、電力や通信、エアラインなどのインフラ系企業や、プラント輸出やエネルギー開発を念頭とした商社とも競合していたのである。
 業界や仕事の内容からすると特殊銀行とインフラ系は全く違う。ではなぜ併願するのだろうか。たぶん、これは公共に貢献したいという志の要素なのだと僕は思う。儲けだけでは無いという、メンタルな意味での職業的インテグリティということかもしれない。本当のところ、これは実際に公共に貢献するかではなく、社員がそう思えるかに過ぎないのだが、この要素を重視するということは、自分自身がそういう物語を信じられるか、ということを意味するから、ここに矛盾は無い。そして、その要素を非常に強く重視する人は迷うことなく国家公務員を目指す。別に関係ないよ、という人はこれも迷うことなく民間企業を目指す。比較的重視するが、国家公務員の安い報酬や疲弊しそうな職場環境は嫌だという、ある種わがままな人が、志と待遇のバランスがとれる所で特殊銀行とかインフラ系企業とか商社を受けている、そう感じる。

誰が東電を辞め、誰が残っているのか

 こう考えると、原発事故後、その後のあり方が定まらない今のタイミングで東電を辞めている人はどういう人なのか、という事が気になってくる。1つの仮説は、Chikirinさんの言う、船の降り時を早く見切った人であるが、すぐ湧く疑問は、こういう即断即決できる身軽なタイプの人が果たして東電に多く就職するのだろうか、ということだ。金融業界は、電力業界よりはこすっからい業界であろうが、長銀でさえ早く辞めた人は多数派では無かった。もちろんこのタイプがゼロでは無いだろうし、東電を辞めている人は依然少数派であるから、辞めた人の中の一定割合はこのタイプだとは思うが、多数派では無さそうというのが僕の直感だ。残りは誰なのか。僕は、これからの東電には、自分の志の実現は期待できないと思った人ではないかと想像する。自分の職業的インテグリティからして、自分の属する組織が許せなくなっている人たちだ。この人たちは、一旦心の整理がつけば、船の沈み具合に拠らずに辞めるだろう。一方で、同様に心の整理がつけば、船の沈み具合に拠らずに残るだろう。今の世の中において、多少なりとも公共に貢献する要素のある民間企業なんて、10年前と比べても遥かに減り、もはや絶滅危惧種なのだから。
 もちろん、残っている人の全員が、それでも公共に貢献したいという種の志を持つ人だと言うつもりは無い。大体整理すると下記の様な人が居るのでは無かろうか。

  • 仲間をそう簡単には捨てれない、裏切れないと思っている人
  • 仕事が安定しているからインフラ系企業を選び、働き続け、他に選択肢が無いと思っている人
  • 妻子やら会社に預けた自分の信用という無形資産やらを考えると、身動きとれない人
  • 思考停止している人

 これらのそれぞれがそれなりに居そうな事は想像に難くない。まず、「仲間をそう簡単には捨てれない、裏切れないと思っている人」だが、日本の仲間意識は組織に強く属すから、その意味で仲間をそう簡単には捨てれない、裏切れない、という価値観を強弱の度合いはともあれ、持つのが一般的だろう。外資やプロフェッショナルファームは、結構なチームプレイヤーであっても、そういう組織に属する仲間意識は希薄で、より広いクラスタへの仲間意識がぼんやりと存在する位なものだが、日本企業は業界や職種などのクラスタより、会社や組織への帰属意識が強いことは改めて言うまでも無いことだ。
 二番目の、他に選択肢が無いと思っている人だが、これは、入社前・入社後に形成された思いでは無く、そもそも仕事が安定している、或いはそれ程きつくなさそう、という実利的な軸でインフラ系企業を選び、働き続けた人だ。金銭より安定を志向するその人にとって東電は待遇が良かったということだ。また、その次の身動きがとれない人も同様で、これも自分の待遇の有形無形の現在価値が、原発事故前は結構高かったということである。間違いなく東電は、金銭だけでない総体としての待遇は大変良い会社であった。よって、これらは概ねこの待遇と、仕事や将来のコントローラビリティの問題に帰結する。この2つを最優先する人の悩みは、まさにChikirinさんの言う、「自分はこの船にいつまで乗っているべきか」ということなのだと思う。

思考停止の普通

 最後の「思考停止している人」だが、多くの人にとって、現在の様な状況は、船の沈み具合を意識しつつも、実際には思考停止しがちなのは已むを無いことだと思う。こう言うと、何で自分の将来なんて重要事項に思考停止できるの?と感じる人もいるだろう。だが、実際日々の仕事は原発事故前と変わらないか、むしろ増えている位であろうことを考えて欲しい。そういう日々の仕事を目の前にすると、船の沈み具合を量る時間が無かったり、或いは「自分は自分のやれることを整斉とやるだけ」と思ってしまったりするのが、どちらかというと日本人のノーマルだと僕は思う。それが無責任な外野からすれば、「思考停止」に見えるという話である。僕も実際に沈む可能性があった船に乗っていたことがあるので、これは実感として思うところである。個人的な話を付け加えるなら、僕はその船が沈まないことが判ってから転職した。船の問題でなく、志の点でより良いと感じた業態とたまたま縁があったからである。いま働いているプライベートエクイティファンド大義には、産業に長期融資をしていた頃の昔の特殊銀行の志とオーバーラップするものがある。現実には商売なので、矛盾することにも多々直面するのだが、それでも携わる人が信じたい大義なるものがある、というのが正確だろうか(前述の通り、実際あるかは別だ)。給与の点では投資銀行に及ばないであろうこの業界に来る人には、そういうものを求めたと思しき人も多い。だから日本のプライベートエクイティアセットは儲からないのだ、という批判は、たぶん事実に基づかないと信じてるので、受け付けないことにする。

新しい時代の公共

 自分のことはさておいても、船の沈み具合を量る人、海の荒れ具合を見る人、整斉と目の前の仕事している人、そんな一群に加え、自分の心の中の志みたいなものと自問自答している人や、仲間を裏切れないと悩む人が、東電をはじめとした世の騒ぎになった会社にいる筈だ。これは良し悪しでは無く、価値観の問題である。その価値観を持ったことが有るか無いかで、同じ民間のビジネスパースンの中でも感覚というかクラスタが違うのだなということを、Chikirinさんが提示した一つの物差しによって改めて思った。もう一つ面白いこととして、そのエントリでは、東電同様に決断が重要になってきた会社・業界として、JALANA、新聞社・テレビ局、国家公務員とオリンパスキヤノンソニー(テレビ部門)が挙げられていた。何が面白いかと言うと、これらの中でメーカー以外の企業・業界には、上述の様な「公共に貢献する」志的な要素があることが共通しており、一方のメーカーには「モノ作り」という別の物語があることだ。これらは日本のかつての志であり物語の主人公達なのである。
 多分、こういう公的な要素や、目に見えるモノみたいな要素が、世の中全体に厳しくなっているのだ。代わりに、コストを徹底的に切り詰めたディスカウンター新興国勢、web2.0的メディアが台頭し、消費者はより安い財やサービスで満足している様に見える。安価なこと、集合知であること、そんな事が民間企業が担う新しい時代の公共の一つの要素なのかもしれない。この時代において、旧来的な公共の要素を余り持たなかったスティーブ・ジョブズの志が高かったように感じたのは、その新しい時代の公共への流れを作り出していたからかなと思う。"power to the people"というのは、要はそういうことなのだ。それは、旧来の価値観を持った人にはむしろ、それでいいんだっけ、と感じる様な類の話ではあるが、好むと好まざるとに関わらず、向き合わないといけない流れなのであろう。そして、「民間企業にいる志系の人々」は、旧来の志を維持するのか、あるいは新しい時代の公共に合わせたものにシフトするべきなのか。そんなことを考え出すと、特殊銀行よりIT業界に転じた何人かの先人達をふと思い出す。