道徳と恋から三列目

 道徳とは自分の中の規範であって、人に押しつけるべきものでは無いと考える。世の中の「人に道徳を押しつけた件数」を仮に計測できたとすれば、子に対して親が叱ったり、犯罪者に対して裁判官が説諭したりというまともなケースの回数よりも、自分を苛つかせるある他人に対して、それしか拠り所の無い批判をして気分を晴らす回数の方が遙かに多く、無益であるからである。堀江さんは金儲けしかしてなくて怪しからんとか、民主党を一度潰しそうになった前原が偉そうなこと言うなとか、「恋から」の三列目は不細工なんだからもっと控えめでいろとか、その類の話である。そして、こういう話をする人の殆どが金も社会的地位も容姿も兼ね備えていないから、批判を道徳に頼るのである。この場合の道徳とは空気という意味に近いのかもしれない。
 市井においては、ま、別にどうでもいい話である。仮に飲み会に恋から三列目みたいなのが居たとしよう。男子にとっては、飲み会における「これ位かわいかったらこれ位強気でも許せる曲線」を大幅にオーバーしている。それで、大凡この様な効用曲線を強く自己に保有している男子は、自分自身の女子マーケットにおける競争力を多少過大評価しつつも、おおむね正しい水準で見積もっているケースが多い。従って、自分自身が女子にとっての効用曲線を守っているのに、相手が大幅に超えていることに違和感が出るのである。ただ、その男性サイドの競争力なるものの相対的序列は、恋から三列目の相対的序列と比べて大差なかったりするのが実情なので、「不細工は黙ってろ」と手討ちにするだけの絶対的権力差を欠くが故に余計に腹が立つのである。だから「人としていかがなものか」「空気が読めない」と規範を押し付ける話になる。もし、男子サイドが、相当の美男子で女に困っていなければ、手討ちに出来る筈である。福山雅治なら人斬り以蔵の冷たさで容赦なく実行するだろう。性別が逆だとどうだろうか。絶世の美女に「不細工は黙ってろ」と言われた場合である。それはそれで別の快楽が・・と、そういう話でなくて、おそらく男子サイドは黙ってその権力行使を受け入れるのでは無いだろうか。ただ、かわいさ効用にも、限界効用逓減の法則がきちんと働くから、圧倒的絶対水準が必要かもしれない。
 しかし、これがマスメディア、特にテレビの世界でもこの構造が見られるのは、多少次元が違う。あんまり非難するべき知識や経験を持っていない言わばアマチュアがコメンテーターとして、あやふやな道徳を元に批判的コメントをするのは見飽きたし、社会にとって害悪ですらある。道義的責任は免れ得ないとか、説明責任とか、貸し手責任とか、誰が責任を問うているのかをはっきりさせない批判を行うのはたやすいが、実に陳腐である。責任を問う主体と問われる内容をはっきりさせないから、批判の対象がすべからくディフェンシブになり、世が息苦しくなる。これはアマチュアがコメントしているから、曖昧な規範を押しつけることに依拠するしか無くなったが故に生まれた状況である。今や視聴者サイドが、こういう批判対象よりもレベルが低かったりするアマチュアコメンテーターに腹を立てつつあって、テレビ離れの一つの要因はそこだと僕は睨んでいる。いっそ、道義的責任とかそれに類する曖昧な言葉こそ放送禁止コードに入れてしまうのはどうだろうか。テレビからの曖昧な規範の押しつけの排除である。こうすれば、テレビも色々頭を使うようになって、知識と経験を備えたプロを起用する、あるいはエンロン事件を追求したジャーナリストの一人で、ゴールドマン・サックス出身のフォーチュン誌記者、Bethany Mcleanみたいな人を育てる様になるんじゃ無いかと思う。
 さて、ちょっと大きな問題に息巻いてはみたが、現実問題恋から三列目の出現の方が、リアルに人は困り、腹を立てることになる。この場面、気分的にどう対処すれば気持ちが収まるのだろうか。ま、一つは場を支配する効用曲線を俯瞰的に笑って解消することだろう。これにはインテリジェンスが必要である。もう一つあるとすれば、ワインリストだけは男子のコントロール下において、不測の資本投入のリスクを最小化しつつ、傾斜配分でこっそり仕返しをすることだろうか。これはリアルな意味で道徳的には怪しからん話である。