住宅の外観を分類する

白亜の豪邸

住宅はアートよりクラフトであると言ってみたが、アートにしてもクラフトにしてもデザインの要素がある。デザインは難しい。なぜなら、イリノイ工科大デザインスクールを出た訳でも無い浅学非才の身に、デザインの言語化という壁が厚いからである。「なんとなくオシャレ」「なんか凄そう」という解像度の低い言葉で建築家と対峙するのは、目隠しをして地雷原を突き進むに等しい。かと言って、目に見えている範囲だけで語ろうとすると、どうしても個別のアプリケーションの話になりがちだ。結果として、住宅のデザインという壮大なテーマを、ついつい『コンセントの位置』や『壁紙より塗り壁』といった局所的な話として、ネット論争は明け暮れる事になる。
遡ってみると、住宅の外観デザインについて、僕が最初に感銘を受けたのは、10年ほど前、当時住んでいた西麻布で、とある路地裏の住宅を見た時だった。白亜の豪邸という、昭和の週刊誌が好きそうな古い言葉がぴたりと当てはまる作りで、しかも豪邸あるあるの「高い塀の向こうに全てを隠す」方式ではなく、割合オープンにその姿を見せてくれていた。その端正な姿を街に晒す潔さに、当時近くを通るのが楽しかった。犬の散歩でもないのに、意味もなくその前を歩きたくなる家である。今回の家作りの過程で、それがアーネストアーキテクツの設計だと知った。アーネストは豪邸を色々やっている老舗らしく、なるほど、建築設計事務所にも老舗があるのか。和菓子屋みたいだなと思ったものだが、実際あの手の家には“お取り寄せできない上生菓子”みたいな独特の雰囲気がある。大きく、白く、端正で、そしてどこか分かりやすく「豪邸」である。これはかなり重要で、見た瞬間に人が「あ、これは立派なおうちですね」と理解できる。建築において、分かりやすさは時として最大の武器である。

まさしく白亜の豪邸

概念としての邸宅

それから数年経って、今度はX、昔の名前でいうTwitterで流れてきた二つの住宅にも目を引かれた。ひとつはSNS上でかのタキマキ邸と噂されている住宅、もうひとつはAPOLLO/黒崎敏による恵比寿の住宅《ESPRIT》である。これらも豪邸ではあるだろうが、先ほどの白亜の豪邸とはまるでテイストが違う。もっと抽象的で、直線の操作や素材の対比や開口の切り方で勝負する、いわば「概念としての邸宅」である。どちらも格好いい。だが格好よさの種類が違う。西麻布の白亜の豪邸には、家であること、しかもただの家ではなく立派な家であることを、かなり積極的に主張する具体性があった。一方で伝タキマキ邸やAPOLLOのESPRITには、家というより、何か都市に差し込まれた抽象物体を見る感じがある。うっかりすると現代美術館の別館か、お金持ちのギャラリーにも見える。住宅なのだが、住宅記号が薄い。例えば、屋根が見えない。ここが面白い。

伝タキマキ邸

縦長だとESPRITが効く

昨年10月になって、いよいよ具体的に家を建てようかという話になってからは、その違いがますます気になり始めた。モダンリビング誌をめくり、GoogleやSNSで検索し、アルゴリズムに「こいつ家建てるな」と見抜かれて大量のターゲティング広告に晒された結果、印象に残ったのが、NAP/中村拓志の《葦垣の家》と、ミサワホーム内のCDO(Century Design Office)という工業化住宅でなく一点ものを作るデザインチームの《内に開き緑と暮らす家》である。前者は、10年以上完成しない千葉のサグラダファミリアこと、ex-ZOZO前澤邸を設計しているともされるNAPによる、和の豪邸だ。「日本的なるもの」を抽出して、洗練して、家でなく名刹スケールにまで巨大化させた感じがある。後者は、隣家に対して高い壁を立ててプライバシーを確保しつつ、内側には三面ガラス張りのリビングを持ち、庭と強くつながる構成になっている。「都市の制約を受け止めたうえで内側に楽園を作る」感じだ。線はモダンだが、プライバシーへの意欲は実に人間的だし、狭くて密集する日本の都市から派生したローカルな息遣いも感じる。渋谷駅と横浜駅の次に完成しない話がバズる前澤邸は、もはや楽園というより神話の領域だが、それはさておき、この二つもまた、どちらも良い。だが良さの種類は違う。

葦垣の家。延床面積600㎡。

ミサワのCDO。土から離れては生きられないけど、隣家からは離れたい。

こうして並べてみると、建築家に自分の好みや、やりたいことをどう伝えるべきかは、改めてかなり難しいと感じた。「デザインが良い」「おしゃれ」「上質」「高級感がある」といった言葉は、褒め言葉としては便利だが、設計の打合せではほとんど役に立たない。なぜなら、名のある建築家が設計した作例にはだいたい全部当てはまってしまうからである。「かっこいい家がいいです」と言われて困る建築家の気持ちはよく分かる。医者に「健康になりたいです」と言うくらい情報量が少ない。画像の切り抜きをたくさん渡す手もあるが、軸が定まっていない雑多なイメージをどさっと渡されても、受け取る側はかなり困るだろう。Pinterestのボードがそのまま建物になるなら苦労しない。そこで、どんな要素を自分が好むのか、どう建築家に話すと誤解なく伝わるのか、そのために難儀だった分類軸の言語化を、ついに試みる事にした。

モダン↔︎クラシック

まず、APOLLOの住宅を見て感じた「抽象的」という言葉から出発してみる。抽象的なデザインの対極には、家であることを主張する具体性を持つデザインがありそうだ。そして家であることを主張するためには、人々が「家らしい」と認識する地域的・伝統的なデザインに、ある程度は依拠せざるを得ない。屋根の形や大きさ、軒の出、窓の取り方、素材感、色、左右対称性、玄関の扱い。そうしたものを通じて、和風なり洋風なり、ローカル色が出る。逆に抽象的なデザインは、世界のどこに建っていても成立しそうな、普遍性、あるいはインターナショナルデザイン性が強い。もっと包摂的な概念で言い換えれば、抽象的・普遍的なデザインはモダンであり、具体的・地域的なデザインはクラシックである。抽象的なデザインは、地域の文脈から離れても成立する普遍性を持つ。これは20世紀以降のモダニズム建築の特徴でもある。逆に、家であることを主張する具体性は、多くの場合その土地の伝統的な住宅形式に依拠している。

この軸で見ると、先ほど挙げた住宅群が少し整理できる。西麻布で見たアーネストの白亜の豪邸は、クラシック寄りである。もちろん神殿のような列柱や完全なシンメトリーを持つ純古典主義ではないが、少なくとも「これは立派な邸宅である」という認識を呼び起こす具体性を備えている。曲面、白い外壁、ボリューム感、家の中が見える大胆な開口部、街に対して見せる表情。これらが合わさって、邸宅という記号を成立させている。一方、伝タキマキ邸やAPOLLO《ESPRIT》は、よりモダン寄りだ。箱の明快さ、要素の削ぎ落とし、開口部の制御、抽象化された外皮。家であると同時に、ひとつの造形物でもある。《葦垣の家》は和の言語を使っているのでクラシック寄りだが、単なる現代に転生した数寄屋にはなっていない。和風旅館みたいで終わらず、現代建築として踏みとどまっている。逆に《内に開き緑と暮らす家》は、庭との関係性はとても生活的でプライバシーを重視する怖れみたいな感情からスタートしてる筈なのに、外観表現としてはかなりモダンである。中身は人間臭いのに、顔つきはクール。こういうズレもまた面白い。
この分類を、建築家だけでなくハウスメーカーまで広げてみても、当てはまりは悪くない。たとえば鉄骨造のヘーベルハウスは、よりスクエアで抽象的な、箱に近いモダンなデザインの商品作りが得意である。もちろん全部が全部そうではないが、少なくともWebページの上の方や広告で推してるのは、「堅牢な都市型ボックス」の系譜である。黒っぽい箱、フラットな面、水平垂直の強い構成、抑制された素材数。つまりモダンだ。これに対して木造の雄、住友林業は、和風建築そのものとまでは行かなくても、より日本の邸宅感を主張するクラシック寄りのデザインが得意である。軒、木、庭との関係、横に広がる安定感、落ち着いた陰影。どこか「ちゃんとした家」という感じがする。三井ホームはさらに分かりやすく、洋館感の強いデザインが得意であり、和洋の違いはあれどクラシックに分類できるだろう。レンガ調や切妻、窓まわりの装飾、輸入住宅的な空気。つまり、モダンとクラシックという軸は、建築家の作品を見る時だけでなく、ハウスメーカーの得意領域を理解する時にもそこそこ有効なのである。

如何にもヘーベルハウス的な。

如何にも住友林業的な。

如何にも三井ホーム的な。

自分なりのデザインの軸と言語化

自分もサービス業的な所があるので、プロダクトは自分の頭の中で可変的である事は良く理解しているが、建築というのも施主の依頼を形にする仕事だから、スタイルは可変的である様に見える。「この人はこのスタイルしかやらない」「隈研吾は木を貼るデザインしかやらない」と決めつけることはできない。あくまで「この作例はこのスタイルである」という話に過ぎない。洋館的な三井ホームだって、最近の商品は箱的なモダンさがあるし、無理言えば箱的なヘーベルハウスを、豪農の日本家屋に寄せたデザインで建ててもらうことも出来るだろう。和食料理人にハンバーガーを作らせた漫画があったが、そういう事をすると、肝心のバンズが不味い事に気付かないという漫画みたいなリスクがあるのかもしれないが、少なくとも対応は可能な筈である。
さて、このモダンかクラシックかの軸を作って、実例や建築家やハウスメーカーをあれこれ当てはめてみたが、これが実に楽しかった。分類は楽しいのである。人はラベルを貼るのが好きだ。ホームパーティに持ち寄ったワインを産地と味の傾向で並べるように建築家を並べ、「これはモダン」「これはクラシック寄り」「これは和モダン」「インターナショナル×クラシックというのは概念的に存在するのか?」などと言っていると、頭の中の散らかった印象がだんだん整理されてくる。ちなみに、ホームパーティでワインを分類して楽しんだ事は無い。

そこに、あるフェルミ推定によると、コンサルタントが作る2軸の整理の50%に価格が含まれるそうなので、そのスタンダードに倣って、価格帯の軸を掛け合わせてみたら、使えそうなポジショニングマップができた。もちろん価格は、営業マンに聞いたり又聞きしたり想像したり、デフレ時代の建築を今の価格に適当に換算したりもしたもので、だいぶ怪しい。基本的には住み始めるまでの総コストで、ハウスメーカーは本体価格だけではなく付帯工事も含んだ総額、建築家はRC造前提で建築・設備工事と設計費を含めてざっくり考えている。ハウスメーカーには、ヘーベルや住友林業より廉価でかつ建設棟数が多いプレイヤーが存在するし、無数の工務店も市場で大きな存在感があるが、プレイヤーの傾向をまとめたいのでなく、デザインの判断軸を考えるのが目的の為、上記に挙げたメーカーまでの価格帯で区切った。が、他のプレイヤーが得意なデザインも左右どちらかの傾向はある様に見える。

モノトーンの箱だけだとモダンに見え、色がついて勾配屋根やアールがあるとクラシックに見えるだけの気もしてくる図

さて軸は出来たが、僕はどうしたいのか。最初にビビっと来たのは白亜の豪邸だったものの、今はタイムレスさを追求したい為、右側を志向すべき様である。だが、右を極めれば良いかと言われると、家作り初期にイメージにしたパークマンション檜町公園はインターナショナルさと邸宅感を切り取って、上下にそれぞれ差し込んだ様なデザインになっており、その断片性によって右寄りながら寄り過ぎてないのがタイムレスさの源泉の気がした。また、価格帯が上がるとモダンさなりクラシックさが純化される印象ではあるが、極上の住宅を幾つか見た上で、上に突き進む事への経済面以外での躊躇も出てきた。こ、これはお金の事情じゃないんだからね!的な負け犬のオーボエを吹きたい訳では無い、その真に驚くべき独白を本稿で書くには、このブログのマージンとパディングは狭すぎる。