医師と取締役の裁量

 僕はもともと法学部だが、例に漏れず大学で法律は勉強していない。今の仕事になって、株式売買契約書をはじめとしたリーガルワークが必要とされた為に、ある程度法律の素養が出来た。だから、という訳では無いが、法律系Blogもよく覗いており、そんな中で最近興味面白かった法律系エントリを紹介する。

 この頃、産婦人科医の不足が騒がれており、出産難民という言葉も一般化しつつある。この原因は、24時間臨戦態勢とならざるを得ない勤務形態のきつさと、その割りに報われない報酬、そして医療過誤に対する訴訟であると言われている。

○Wikipedia/出産難民

 この産科不足は、弁護士が規制緩和で増えたせいだとするのが、紹介するエントリの骨子である。弁護士から見ると、医療訴訟というのはオイシイ商売なのだ。なぜなら、命が関わるが故に損害賠償額が億単位になる可能性も有り、病院や医師は医療保険に入っていて勝訴したら支払える原資が有り、かつ特に、産婦人科医の場合、健康に生まれるのが当たり前という認識が広がって、医者のミスが認められやすい環境下にあるからだ。

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  • 東京は落葉樹の街

 よって、自由競争時代に突入した日本の弁護士業界は消費者金融への過払い金返還請求のみならず、せっせと医療過誤訴訟にはげみ、それによってどんどん医師、或いは医学生はディモチベートされて、産科が減る、という構造になる。

○デンカの宝刀/産婦人科医不足は弁護士数が増えたためだった!

 こういう法的基盤の整備の進捗が社会にインパクトを与えた例は、過去にも有って、自己破産者の増加が弁護士の数の増加とリンクしていたという話をかつて聞いた。これは、多重債務者が相談する相手が増えると、あっさり自己破産して債務整理する、という選択肢が取られやすくなる、という事の様だ。

 弁護士が増えて、法の下の平等が担保されるのは実に結構なことだが、一方で社会全体の厚生を考えると、産科が減るのは、ただでさえ少子化が進む中で大変な問題である。こういうややこしい問題は、得てして「弁護士一人ひとりのモラル向上と、医師の技術向上が求められる」とか何とかと精神論で片付けられがちだが、それではもちろん解決になる訳がない。
 弁護士の数を増やすのは、法律で保護されている利益を無知ゆえに奪われている人が救済される可能性を上げたり、或いは日本経済社会全般の取引慣行の不透明さを法律でスッキリさせて、取引コストを減らしたり、外国資本導入を促したり、という目的があるから、それはそれで進めなければいけない。後者は、俗説に日本の接待交際費総額のGDP比は、米国の弁護士費用のGDP比とほぼ同じというものがあったが、要はなぁなぁで内輪で済ませていたクローニー・キャピタリズムをより透明な市場にもっていこうという事だ。そして弁護士が増えれば、金額が大きい問題から順番に法的に解かれていくのは市場原理からして当然だから、今の医療訴訟なんてのは格好の標的となる。産科が減ると社会全体の厚生が下がるから医療過誤訴訟しない、なんていう風に全体最適的に弁護士は動かない。あくまで個々の経済合理性が基本である。また、一方で医師は医師で、幾ら研鑽に励む制度を作ったとしても医療事故をゼロには決して出来ない。よって、弁護士が増える程医療訴訟が増え、そのリスクを嫌って産科の様な事故が置きやすい分野の医師が減ることになる。

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  • ここ数年チューリップ見た記憶が無い事を思い出した。

 僕は、このデッドロックを解決するには、医師に対して、企業の取締役並みのエグゼンプション(免責)を与えるしか無いと思う。取締役は、会社法上の明文規定は無いのだが、判例上は広汎な裁量が認められている。取締役は、善管注意義務自体は負うものの、故意または重過失が無ければ、経営判断の結果実損が発生しても、基本的に責任を問われないのだ。この過去の判例によって積み重ねられたルールは、一般に「経営判断の原則」と呼ばれている。元来、経営にあたってはリスクが伴うのが常であり、結果的に会社が損害を負った場合に、事後的に経営者の判断を審査して取締役などの責任を問うことを無限定に認めるならば、取締役の経営判断が不合理に萎縮されるおそれがあるから、この様な原則が存在する。もし、この原則が無ければ、ITバブル時にホイホイと海外の携帯電話会社に出資しまくって、結果1兆近くをスったDocomoの取締役なぞは、死刑を通り越して、打ち首獄門であろう。

 かたがた、今の医療過誤訴訟、或いは刑事事件における業務上過失致死罪の適用においては、集めた情報の限りであるが、医学書に書かれていれば「予見可能であった」とされたり、一般的に用いられている手法を裁量で変更すると「過失」とされている様だ。すなわち、医師の裁量の範囲は、企業の取締役と比べて随分狭いのである。これは少々イマイチである。萎縮診療という言葉があるが、標準的アプローチ以外を取って失敗すると訴えられるのなら、そりゃ医師は萎縮する。また、全ての新しい試みは必ず標準的アプローチでは無いのだから、これでは医学の進歩は止まる。

 産科に限って言えば、周産期死亡率は1000出生中3.3人(米国は7.0)、妊産婦死亡率は10万妊婦中4.4(米国は10.0)と、医療というものは、経営判断と同様に、元来リスクがあるものである。この前提の上で、医師が取締役と同等以上に専門職であり、かつ社会に果たす役割・責任が大きい事を考えると、法的なエグゼンプションの手当てもさながら、「経営判断の原則」と同様に、判例で故意・重過失なくば訴訟リスクはカーブアウトされる様な流れが定着してしかるべきと思われる。ニュースになる事も多い、福島の産科医逮捕事件は、未だ係争中の様だが、地裁では是非とも萎縮診療を打ち破る法的判断が下されることを望んでいる。

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  • ありがちな構図だが。