正義は誰が決める?

 警察庁長官銃撃事件が時効を迎えた。それに際して、警視庁の青木五郎公安部長が記者会見を行い、オウムがやったと推認されると捜査結果を公表することが「正義」に叶い、国民の人命や生活を守っていくうえで大切、と述べた。

「力及ばずに尽きる」=謙虚に反省、テロ防止誓う−長官銃撃で警視庁幹部

 立件できずに時効を迎えたのに、オウム真理教関与を指摘した捜査概要の公表は異例。「可能性が高い」「推認される」との表現もみられ、「推論を積み重ねた決めつけでは」との質問も相次いだ。
 青木部長は「事件を風化させず、テロの悲劇を二度と繰り返さないことが大事。正義にかなう」と強調。「人権に配慮した上で、国民に説明することに公益性があると判断した」と話し、理解を求めた。

○出典:時事ドットコム

 揚げ足とってもと思うけれども、正義に叶うかは自分達が決めるという意識が警察内部のカルチャーとして存在することは、この発言によって「推認」できる。2つ前の非実在青少年問題のエントリとも関連するけど、モラルや正義が刑法の根拠となることは賛成である。頂いたはてブコメントの中で、「モラルや秩序は、自分を締め付けると同時に自分を守ってくれるもの、という認識を持って欲しい」というのがあって、これには大いに頷く次第である。だけれども、正義に叶うかを決めるのは警察である、というのはもの凄く違和感がある。
 法的には話は簡単で、何が正義かを決めて法律に落とし込むのは勿論立法の役割であり、ある行為が決められた正義に合致するかを判断するのは司法である。そして警察とは行政機関なので、法に叶うかは判断できても、法を超えてその基の正義を決める権限は無い。なので、立法には国民のガバナンスが直接効き、司法にも極めて限定的ながら国民審査制度がある。複雑化する一方の現代社会において、細かく全てを法律では規定しきれないから、行政の裁量が大きくなるのは仕方がないが、正義を法の執行機関である行政が決めることは許されていない。
 なのに、正義発言が公安の偉い人から出ちゃう背景の一つに、僕は日本の法体系があると思う。そもそも、日本の法律は絶対に守れない様に厳しく出来ていて、守れない人をしょっぴくかは警察の裁量になっている。道路交通法にしても、政治資金規正法にしても、金融商品取引法にしても、究極は軽犯罪法だが、基本守れない様な内容だ。政治資金絡みの、会社で言えば経費の領収書間違えた位で刑法犯になってしまう様な細かな手続きや、バイサイドアナリストが企業訪問してヒアリングしただけでも解釈によってインサイダー取引になってしまう様な立て付けとかである。本気で法律守らせたいなら、来月あたり渋谷にある「ちとせ会館」に目の前の宇田川署から私服警官を送り込めば、飲酒した未成年の新入生を毎日100人単位で捕獲できるだろうが、それはしない。一方で、急性アル中とかが起きると、法律がきちんと適用されて監督者がしょっぴかれることになるし(これは当然だが)、警察批判を繰り返す様な映画監督や教授が居れば、微罪逮捕できる余地を残している。更に言えば、別件逮捕という言葉があること自体が、その裁量を示している。その別件逮捕でよく使われる軽犯罪法に「浮浪」とか「列の割り込み」などが罪として定義されていることをご存じだろうか?
 特高警察なんてのがつい数十年前まで存在していたし、その時代はまさに治安維持という名目の基に正義は警察が決めていたのだから、今の警察にもその残滓が雰囲気としてあってもおかしくは無い。ただ、これまでは治安も大変良かったし、またうまく警察が法律と社会とのクッションになって、法律を超えた所での調整機能を果たしてきた。いわゆる予防措置としてのトラ箱なんてのはその典型だ。だから、国民は公権力への何と無しへの安心感から厳しい法律とそれに基づく警察権力を容認してきた。
 ただ、時代が変わってきて、人々の権利意識も高まってきたし、軽微な法律違反であっても、それを見逃すこと自体が罪として追求されかねない息苦しい現代でもあり、法律の方を、大方の人は普通にしてれば守れる法律に変えていく必要性が高まっている。立法が警察の役割では無いのが面倒くさい所だが、ここんとこの検察ファッショの議論とか、今回の件に対するニュースメディアの健全な批判を見るに、時代の変わり目が来ていると感じる。法律を守れる明快な形に縮小していくことは、国民的なコンセンサスが得られるのでは無いだろうか。
 この様な形で法律のコンセプトが根本的に変わるかどうかは判らないが、変わるまでは警察の裁量は常に大きいと考えておいた方が良いだろう。Chikirinさんのこの良エントリに経済人の本音がよくまとまっているけど、

○“検察が逮捕したい人”一覧

 検察と警察の違いはあれど、ダーティ・ハリー症候群という言葉が有るとおり、警察権力が正義の執行者を自任している以上、行き過ぎは必ず起こる。これが正義発言の第二の背景である。今の法律のままでは、微罪を犯しても、社会通念の範囲内なら見逃されるという慣行は変えようが無いが、社会通念の範囲内であっても、検察・警察内にその存在が推認される「正義」感によって引き起こされる、疑問符が付く微罪立件は今後も続くだろう。ソニーもその商品は「ソニーらしくあるべき」という一種の正義が蔓延した辺りからダメになった感があるが、正義意識は気分であって思考では無い。村上さんの、うっかりインサイダーとか、法の解釈としては罪ということなのだろうが、あれが罪なら他にもっとまずい商慣行は山ほどある。しかも、被害者はまだ居なかったし、罰する程モラルに反していたとも思えない。ただ、検察と司法の中では、金儲け主義に慄然としてしまう位なので、罰するべき程正義に反したということなのだろう。経済界の中でのモラルと検察や司法の中でのモラルがズレている典型例だが、こうやってズレることそのものが、依拠すべき正義とは思考に適さない概念であることを示している。
 中国には、国に政策あれば民に対策ありという言葉があるが、引き続き警察が巨大な裁量を持っている状況を前提にすれば、うまく目立たず生きるのが一番である。世の中には、Low profile(目立たない)ということを社是にしているファンドもあるし、金儲けをサステイナブルに続けるには、誰かの正義に触れない事は必須の条件なのだろう。これは日本に限った話じゃなくて、今のトヨタの惨状は米国民の正義に触れた側面が大きいと思う。しかし、少なくともトヨタは米国で刑法犯にはなっていない。叩いているのは、米国民から選ばれた議員であり、また守っているのもトヨタの工場で働く人から選ばれた議員である。マスメディアもカスタマーである国民の目を意識している。決して行政機関が赤狩りをしている訳では無く、この米国の正義には国民のガバナンスが働いているのである。そう考えると、一連の正義話でやっぱりおかしいのは、国民のガバナンスが直接効かない警察という行政機関が、独自の正義を語っていることでは無いだろうか。