向島旧赤線地帯を往く

 向島には、むかし赤線があった。向島は花街で有名で、芸妓の居る料亭も多かったが、その近隣の玉の井というエリアは私娼窟が集まった娼館街だった。往時は、この玉の井に500件もの娼館が存在したと言う。それが東京大空襲によって丸焼けになり、たまたま近隣で焼け残った鳩の街と呼ばれる細い商店街に移った。この商店街は疎開で空き家が目立ったから、営業には好都合だったのだろう。永井荷風が描く向島はこの辺りの街が舞台である。戦後、鳩の街は赤線地帯として発展するが、1950年代の売春防止法の施行によって、この街は吉原の様に特殊浴場街として生き残ることを選ばず、戦前に戻って普通の商店街・住宅地となり、その娼館街としての役割を終えることになった。
Cherry blossoms at Mukojima
[NIKON D700 /AiAF Nikkor 24-85mm/F2.8-4D (以下全て同じ。)]
 向島隅田川と面しており、その堤防を墨堤と呼ぶ。墨堤の桜というのは都内でも桜の名所だが、その期限は古く、8代将軍吉宗の時代に、堤防強化と風流を求めて桜を植えたことに由来する。週末、この墨提の桜と、近隣に点在する名物の団子を目的に向島を訪れたが、そのついでに昔の赤線地帯が今どうなっているのかも見届けてきた。
Tokyo Showa Classic 1
 鳩の街商店街自体は、こんな建物が立ち並ぶ細い通りである。東京の商店街は、みな生き残りを賭けて、猫も杓子も武蔵小山のパルムみたいに、モダンで明るくなっているから、こういう細くて長く、そして暗い商店街は、それだけで濃厚な昭和の匂いを放つ。この建物は実は商店で無くてカフェである。中に入ると、小学校の机と椅子が並ぶ。多くの人にとって、昭和の記憶とは小学校の記憶だったかと得心する。この昭和な商店街の中で、ここだけが唯一現代な感じのコンテンツかもしれない。ただ、カフェの名前が「こぐま」と言うのだが、それが場所とコンテンツ双方に如何にもそぐわず、ここだけは謎が残った。
Tokyo Showa Classic 3
 これも商店街の一角。ぽつんとあれば単なる古びた家だが、こういうのが立ち並ぶと違う意味合いを持つ。東京は京都と違って、江戸時代の町屋が空襲で殆ど残っていないから、こういう所を通りとして保存すれば、いずれ「昭和クラシック」とか適当に名付けられ、昭和がいずれ価値を持つと思う。しかし、時代的に近すぎるのか、余りそういう流れにならないのが残念だ。こうしている内に風景は失われていく。
Tokyo Showa Classic 4
 大阪には「ニコイチ」という一つの建物に二戸が入るプチ長屋みたいな住宅が有るが、これは「イッコニ」と呼ぶべきか。二つの建物を外壁で無理矢理一つにしている。こういう代物が商店街にひそんでいたりする。昭和とは油断ならぬ時代である。
The memory of old red light area 1
 古い赤線時代の建物は、鳩の街商店街から一歩入った限りなくか細い通りに幾つか残っている。当時、赤線地帯の私娼窟は「カフェー」と呼ばれ、そこに居る女給の余禄というか本業が売春だった訳だ。どういう理由かは判らないが、警察の指導で、こういったカフェーは模造タイルの柱や壁を持つことになり、これが歴史の目印となる。ええ加減な普請の外壁は朽ちていくが、タイルは今でも磨けばピカピカであろう。
The memory of old red light area 5
 外壁はリノベートされたと思しき建物だが、二本のそびえるタイルの柱が往時を物語る。この建物は四つ角に面した一等地に立つ。その昔は、最も大きな娼館だったのかもしれない。永井荷風に加えて、吉行淳之介もこの街を舞台に幾つかの小説を書いているが、「原色の街」という作品では、この街はこう描かれている。「大通りからそこへ足を踏み入れたとき、人々はまるで異なった空気につつまれてしまう。細い路は枝をはやしたり先が岐れたりしながら続いていて、その両側には、どぎつい色あくどい色が氾濫している。ハート型にまげられたネオン管のなかでは、赤いネオンがふるえている。」
The memory of old red light area 3
 すっかり風景に馴染んでいるが、庇(ひさし)と柱は間違いなく娼館のそれである。こういう元娼館に住むという行為は、すごくロックな感じである。さる3月に愛媛県の元ラブホだった城がヤフオクに出て話題になったが、そこを落札するのと同じ位ロックだ。しかも、愛媛の城に住むのは難しいけど、向島の娼館に住むのは僕でも出来る範囲の話である。ちょいと脱線するが、もしお金がうなる程有ったら、城はとりあえず落札しておきたい。用途はもっと色々なアイディアがあるのだと思うが、とりあえず思いつくのは病院に転用かな。別にまげを結った医者に体を診てもらう奇妙な趣味は無いが、入院先が市民病院じゃなくて二の丸とかであれば、なんか恥ずかしい病気でも「向こう傷じゃあ」とか前向きになれる感じで良い。象牙の塔どころか、天守閣付きの城である。篭城上等だ。
 さて、僕は6,7年程前に神楽坂に住んでいたが、これは僕にとって最初で最後の花街に住んだ経験であった。とにかく日常が普通じゃない街だった覚えがある。その当時、僕は丸の内で働いていたが、丸の内ってのはビジネス以外の要素が2%位しか無い純粋培養な街だ。その純粋ビジネスディストリクトな丸の内で一日働いて、戻った神楽坂で同じく帰路の芸妓さんとすれ違う日常生活は、なかなか他の街では出来ないものである。同じく神楽坂は、日仏会館があるからか、美味しいクレープリーがあるからか、フランス人が妙に多い街でもある。芸妓とフランス人ときつい坂、それが僕の懐かしい神楽坂の記憶である。
Mukojima Geisha
 芸妓さんが花見に一役買っていた。神楽坂はここ数年、街の知名度も上がり、それなりに盛り上っている感じがするが、向島の花街も健在の様だった。しかし、良い時代の頃は、MOF担がこの花街の維持に一役買っていたらしいが、今は誰がお金を落としているのだろう。商いとして、どうも先細りな感は否めない。もし機会があるとすれば、押上に建設予定の東京スカイツリーだろうか。東京スカイツリーが出来たら、押上と浅草の間のこの地域はいずれ注目を浴びる。その時、向島の花街も、鳩の街の昭和な風景も、ブランディングマーケティングをうまくやれば、ブレイクする可能性がある。その機会を逃すと、多分こういった尖がった情緒も、次代には伝えられず、消えていく運命かなと思う。
 東京には近代が無い、とは欧米を旅して思う第一のことである。アジア各国共通して言えることではあるが、ローカルな中世の次が、いきなり現代なのである。六本木ヒルズと浅草の間の東京は何なのですか、と外国人に問われると大変きつい。焼け残った下北沢も消え去る運命だし、日本銀行と三井本館と三越本館が並ぶ日本橋以外に、戦前の記憶は東京に乏しくなってきている。単発の建物じゃなくて、その時代の大衆の息遣いが判る街並みという観点ではもう残っていないと言うべきだろう。これは、昭和についても同じく風前の灯だ。近代の大衆の生き様の記憶を残す為にも、昭和な街並みは何とか知恵を絞って保存したいところである。